テーマ:2011・7・25旅

「邪馬台国」は本当になかった!ー13

今回の九州旅行で不思議に感じた一言を書いてみようと思いま す・・・。 それは・・・、 大宰府宝物館の前で買い求めた『宝満山歴史散歩』(森弘子著) の中に記された短歌についての話です。 この書の中には、『宝満山』についてのあれこれが書かれていま す・・・。 最初の部分にですが、つぎのように書かれています・・・、 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー12

前ページで、北九州、中国四国地方に点在する神籠石と山城と 呼ばれている防塁施設の築造者を、グーグルアースで俯瞰した とき、一目瞭然、九州に存在した王家によるものであった、という ことがハッキリ分かりました。 しかし、私がこれまで述べてきた経緯については、定説派を奉じ る邪馬台国論者にとっては、大いなる不満を胸に、静観してい…
トラックバック:1
コメント:0

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー11

今ページでは神武東征に入ろうかと思っていたのですが、前ペー ジまでの10話の総まとめを述べなければならないことに気付き、 その点についてもう少し続きを書きます。 二、三年前覚えたグーグルアースを、今回なんとなくの検索中、そ のグーグルアースの写真中の平野部と山岳地帯がクッキリと分か れた地模様が何かの意味を告げているような…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー10

前ページでは、卑弥呼の居所については確定できなかったが、大宰 府という名の由来から、倭王「武」が大宰府に条坊制を布いた「都」を 築いていたことを突き止めることができました。 しかも倭王「武」が、卑弥呼→(壹)興→旨→賛→珍→済→ 興、と、こ れ等の王達の後裔であることは、このブログをご覧の方々には誰で もご承知ゆえ、女王国…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー9

これまでは、倭人伝の記述をもとに、大宰府、須玖岡本遺跡、吉武高 木遺跡、平原遺跡、佐賀の唐津、吉野ヶ里等を巡る旅から、卑弥呼の 居城、および墓の在りかは、およそのところではありましたが、北九州 博多湾岸に存在しているであろうことを、私なりにを突き止めることが できた。 そして、沖ノ島は、祭祀に使われたと思える土器、銅器、鉄…
トラックバック:0
コメント:3

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー8

今ページでは、文字の成り立ちや名前の由来から、大宰府に卑弥 呼の後裔の王朝が存在した・・・、ということを探ってみようとか思い ます。 大宰府(=太宰府)の意味を調べてみます。 ①・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【太宰府】について 【太宰】・・…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー7

私は、ある大事な箇所の結論を提示することもなく前ページを終え てしまいました。そのため、理解不能のページとなってしまい、ご迷 惑をおかけしましたかも知れません。失礼の段お許しください。 ・・・その大事な箇所とは・・・、 “祭祀土器は連綿として続いているが、八世紀以降は、あの豪華絢 爛たる金銅器の奉納(奉納かどうかについては定…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー6

前ページでは、土器の様式や銅鏡の発見パターンから推測すれば、 これらの沖ノ島に眠る財宝群が近畿天皇家の奉納物ではなく、北 九州に存在したであろう王家に由来する財宝であったであろう・・・、 というところまで書きました。 前ページで、もうひとつ付け加えることがありました。 ・・・、それは・・・、前ページでも少し触れましたが、 …
トラックバック:0
コメント:3

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー5

前ページでは、卑弥呼の居所の範囲は、吉武高木遺跡から須玖岡本遺 跡を越えて大宰府領域まで広がっていた、と書きました。 わたしの邪馬台国物語は、どんどん「邪馬壹国」の核心に近づいていっ ています。 すでに、私たちは、大宰府の謎のベールのトンネルの入り口に立ってい るでようす。 その謎のベールを振り払えば、すぐそこに…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

邪馬台国」は本当になかった!ー4

前ページでは、卑弥呼の居所について次のように書きました。 “吉武高木遺跡が位置している所から、須玖岡本遺跡の範囲内に存  在していたのではないか・・・?、と推測しているところです。”・・・と。 ところが、最近出版された古田氏著の『卑弥呼(ヒミカ)』の中で、次の ような推論に出会いました。・・・、それは・・・、 “伊…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー3

インディジョウーンズの話に入ります前に、これまでの北九州・山口訪 問の旅を終えて、一番印象に残ったことを述べてみたいと思っていま す。 九州に到着して大宰府政庁跡を見学、翌日は飯塚市の立岩遺跡へ立 ち寄り、即引き返して須玖岡本遺跡(奴国歴史資料館)を経て、日本最 古の王墓といわれている吉武高木遺跡へ向かいました。 この遺…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー2

前ページでは、歴史秘話ヒストリアの番組をみていて・・・・、邪馬台国、 邪馬台国と、ありもしない国名を何回もアナウンスするので、腹立たしく なってスイッチを切った、というようなことを書きましたが、その後、ある とき気になったのか、その録画しておいたのを、何に気なしに開いて見 ると、『まぼろしの邪馬台国』の作者、孝宮崎康平氏を紹介、…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「邪馬台国」は本当になかった!ー1

このブログを書いている時、傍らのテレビは、邪馬台国についての話をし ています。NHK夜10:00から始まる、歴史ヒストリア・・・です。 出だしは、日本全国津々浦々、いろいろなところに邪馬台国の候補地が ありますよ、との話から始まったのですが、番組の途中からは邪馬台国 ここにあり!・・・、と、云わんばかりに、近畿奈良で見つかっ…
トラックバック:0
コメント:8

続きを読むread more

2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅦー(キ鳳鏡ー3)

今ページは、梅原論文に対する、杉原荘介氏と岡崎敬氏の梅原論文に対 する反論を紹介します。 まず、杉原氏です。(古田氏の論述は、“・・・・・”で、杉原氏は<・・・・・> で、表します) “これに対して、三年後の昭和47年に出た杉原荘介氏の『日本青銅器の  研究』(中央公論美術出版)の場合、論証は次のようだ。” <須玖遺…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅥー(キ鳳鏡ー2)

さて、いよいよ「キ(夔)鳳鏡」が、須玖岡本遺跡からの出土品であったか どうかの際どい論議に関して、コテコテの邪馬台国論者を相手に、古田 氏の面目躍如の斬り込み隊長よろしく、次から次へと論破してゆく様をじ っくりとご覧に入れたいと思っています。 なぜ「キ(夔)鳳鏡」が、須玖岡本からの出土であるか無い…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅤー(キ鳳鏡-1)

前ページまでの、北九州を代表する「井原(いわら)」・「三雲南小路 (みくもみなみしょうじ)」・「平原(ひらばる)」・「須玖岡本(すくおかも と)」・「立岩(たていわ)」の各遺跡が弥生時代後期後半、及び弥生 時代終末期までに営まれた墓地群であったということを、もう一歩押 し進め、確証に近いところまで導いてくれるであろう一枚の銅鏡の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅣ

下の図は、北九州における代表的な五個の遺跡と銅鏡との対照表で す。この図の全体を眺めてみると・・・、ある疑問点が浮かんできます。 (キ鳳鏡は夔鳳鏡と書きます。?マークは混入物ではないかとの議論 のあるところ、という意味。三雲南小路の○印は、手元の史料では数 を確認できないが、該当するカガミが出土しているという意味で…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅢ

前ページでは、結局のところ、甕棺そのものによる編年、あるいは その甕棺を内包した遺跡自体の編年方法は、当時としてはこれと いった決め手のある有力な説も無く、簡単に編年の決定をゆだね ることのできる理論も無かった。 したがって、甕棺の中に副葬されていた銅鏡の銘文の有りや無し、 文様の様式、鋳上がりの良し悪し、等々をもって舶載鏡と…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

H 23・7・30 土井ヶ浜遺跡廻り前夜と当日(31) 

一足先に、最後の日程から・・・・・、 明日(7月31日)は日曜日、市役所は休みで資料集めが儘ならないようだ。 ・・・、いや!ところが、違ったようです。「土井が浜遺跡人類学ミュージアムの 案内を拝見すると、休館日は月曜日とのこと、助かった。他の歴史資料館とは 大違いで助かりました。 ・・・で、そのミュウジアム見学のた…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

2011・7・25~7・31北九州・山口の旅

ハナサンピンは卑弥呼に逢ってきました。 倭国は巨大な防衛国家であったことを知った旅だったからです。 一番外(そと)に対しての防衛体制は北九州一円を取り巻く「神 籠石(こうごいし)」群があります。 そして、その内まきに、「水城」が主として博多湾岸に対しての防 禦体勢を布くように平地に張り巡らされています。 そして、大宰府の…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more