卑弥呼ー20 道草 三

 ⑧ さらに、進一歩しよう。
   二ニギノミコトたちは、九州王朝の始祖
   や歴代だ。その歴代の“善き導き”のもと、
   民の「いほり」は安定し、生活を楽しんで
   きた。それなのに今は、うって変わった。
だれの目にも明らかなように、倭国「俀国」のリーダー、
  九州王朝の君主達は、大国(唐朝)との無謀な戦(白
  村江の戦)に突入し、おびただしい自己の将兵を海の
  藻くずと化せしめた。そして残る遺族の、庶民の家々
  も、今やすっかり荒れ果ててしまった。
 人麻呂はそのリーダーたちの責任を静かに
    問うているのです(自分をも)。
  人麻呂自身もこのリーダーたちの、はしくれ、いや、、、
   先頭に近いところに身をおいて居り、
    おそらく、・・・大国唐との戦いは避けたい!!・・・
   やってはやってならない戦!!・・・、と強く思って
   いたけれども、もはや運命の道からは逃れ得ぬと
   覚悟し、後悔と自責の念で哨然と立ち尽くしていた
   のでしょう。
    当時の社会情勢は、それを許してはくれなかった
    のです。
 人麻呂も無念の思いでこの社会の流れに、身を任せる
   ほかなかったのです。
 
  人麻呂は誰の責任を問うても仕方のないことと重々
  承知しており、大きな歴史の大車輪を止めることは
  出来ない、・・・ということを・・・大きなうねりの波の上
  の小船の如くの自分を、認識せざるを得なかったので
  しょう。胸がはちきれんばかりの深い悲しみと、身を
  捩じ切れんばかりの深い反省を、暗澹たる思いでこの
  歌を訓んだのです。

 このように、この歌を理解すれば、「珍妙」な、「ごますり」
  めいた歌などとは、とんでもない、全万葉集中にも、類
  をみぬ、深い目指しの光の透き通る歌、として(古田氏
  によって)名歌と生まれ変わらせてもらったのです。
  
  それを、どうでしょう、
  奈良県高市郡飛鳥村に作歌場所を置き、現在も、世に
  も奇妙な、珍妙な歌として訓み、解説して人麻呂を、貶
  めてはばからない、作歌、詩人、文学者がいるのです。

  ところがその解読法が今でも定説化しているのです。
   
 人麻呂はそのように低俗なる詩人だったのでしょうか?
  そんなことは無いと思います・・・、他の歌を見れば・・・
 もっとも日本書紀中には人麻呂は存在していなく
  しかも、続日本紀には柿本朝臣佐留(さる)とまで
  貶められているのです。

 九州で生まれた歌を、原文を改定して、近畿政権下で
  生まれた歌として、換骨奪胎(古田氏がよく使われる
  語句です。)して万葉集にとりこんでしまったのです。

 しかし、古田氏によって人麻呂のこの歌が秀歌として生
 まれ変わらせてもらったのです。

 そうなんです。 
 真実は九州で生まれた歌だったのです。・・・・・・・・!!

≪ 「雷岳」(いかずちだけ)の古田氏の現代語訳≫
  
  代々の王者は、すでに死んで神になって
   いらっしゃいますから、天雲のかかった、
 この雷(いかずち)(の山)の上に“いほり”(住家)
   を作っておられます。
 しかし、文字には現れていない人麻呂の心の中で叫ん
 でいる真の意味は、・・・
     (しかし、今生きている民には、もはや“いほり”も 
    なく、みな「白村江の戦」の結果、苦しみ尽くしてい
     ます。)
  
  いかがでしょうか、この歌は奈良ではなく
   九州の歌でなければならなかったのです。

  そうですこの歌は九州から奈良へと移動させられ、
  意味のない、駄作の歌とさせられてしまったのです。・・

  ・・・・・・・ときの政権によって・・・・・・・!
 
 続きのページも、もう一つの人麻呂の
     秀歌を紹介させていただきます・・・・・

 次もよろしくお願いいたします。・・・・では。・・・・
  
    
   
  

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