卑弥呼ー15 范曄(はんよう)と裴松之(はいしょうし) 

 著述対象は「後漢書」のほうが先だが、
執筆時期は陳寿「三国志」よりおそいのである。
 かって、「史記」・「漢書」と現れたのち、陳寿は
(同時代史)としての「三国志」を書いた。
 自分の少・青年時代に見聞きしてきた世の動きを
陳寿は筆にしたのである。晋は魏のあとつぎとして、
平和裏に禅譲され、史料の紛失も無く豊富な史料
のなかで「三国志」を著せたのである。
 したがって「三国志」の史料性格のもつ信憑性は
きわめて高い。
 これに対し、「後漢書」の場合はまったくことなって
いる。
 范曄は、「漢書」と「三国志」の間に、後漢時代の
欠史状態になっているのを見、これを自らの手で埋め
ようとした。
 しかし時代はすでに、《後漢ー晋(西晋)-東晋ー
宋(南朝劉宋)》と経過していた。しかもその間には
316年、匈奴冒頓(ぼくとつ)の一族によって晋が
滅ぼされ、晋の王族の一部が揚子江の南に
のがれる、という一大異変がはさまれていた。
 それ以来、かっての都、洛陽を含む華北は、
いわゆる「五胡」の地と化したのである。
  このような政情不安の状況では史料の紛失も
免れ得なかったであろう。
 同時代史として書いた陳寿の三国志は正確その
ものであり、しかもこの三国志の校訂・注釈をほどこした
裴松之は范曄と同時代の人物だ。裴松之は独断的に
各版本の正邪の判定を下さず、一方を捨て去ったり、改定
したりすることはせず、自分が間違っていると判断した場合
には、必ず原本の文章の脇に注釈を入れ(時には、政治には無関係のことがらでも、
原本の本文よりも長く注釈付けをしているので、人によっては本文の文意が損なわ
れかねないとして、評判の悪い注釈者扱いする学者もいますが)、原本の文はその
ままに後世に伝えようとしていたのである。(ここが、私が一番重要視しているところ
なのですが)原文には手を付けずに、勝手には改定をしようとはしなかった人なので
す。
 すなわち五世紀の注記者裴松之の目には三国志の中の
「邪馬壹国」の「壹」は「邪馬壹国」と写っていた。「邪馬臺国」とは
写っていなかったのです。
 これに比べ、才気あふれる達文の士、范曄は五世紀の
政治状況のなかで、五世紀の読者向けの倭国を表現しようとして
いたのです・・・。 そうです・・・。  こともあろうに・・・、「邪馬臺国」と。

 当時「臺」は、天子(王)の居すところ、聖なる領域、
として認知されていたのである。そこで范曄は「邪馬臺国」の
ほうが時代に即していると感じ、改定してしまったのです。
 范曄と裴松之は二人とも五世紀南朝劉宋の人であり、范曄
は裴松之より26歳年下でありながら、6年早く死んでしまった。
 両氏とも「三国志正本」のなかには「邪馬臺国」を見出せな
かっただろうとおもわれるのです。
 もし、范曄が見たその「邪馬臺国」と書いてある「正本」が
彼らの時代に存在していたなら裴松之の目にもとまらぬ筈は
なかったとかんがえられます。
 天子の詔を奉じて、諸異本を広く正確に堅実に交合した
裴松之は「邪馬臺国」を見てはいなかったのです。
 ということは范曄の目にも「邪馬臺国」とは写ってはいなかった
ということなのです。
 しかし五世紀、范曄の時代には中国の天子はもちろんのこと
夷蛮の民族も皆こぞって自分達、王の居るところを、「臺」、と
称していたのである。
 そこで范曄は倭国の女王(卑弥呼)の居るところをもきっと
「臺」とよんでいたであろうと想像したのでしょう。
 そこで范曄は考えついた。
  「邪馬臺国」のほうが今現在(五世紀)の時代に相応しい
国の名だろうと、「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と改定創造して
しまったのです。
 
 日本において卑弥呼の国をはじめて「邪馬臺国」といったのは
 だれだろうか  
  その第一石は、北畠親房(1294~1354年、南北朝時代の
   公家・学者)「神皇正統記じんのうしょうとうき」であった。
  しかも「後漢書」では「邪馬臺国」であるのに、「神皇正統記」
  では「邪麻堆」と改定のまたその改定をしてしまったのである。
 そこで一番見逃してはならないのは親房は「三国志」の中から
 ではなく「後漢書」の中からだったのである。
  次に室町期の瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)がこれを
 受け継ぎ、またその次の松下見林(異称日本伝)は、
    《今按ずるに、「邪馬臺国」は大和国なり。古の大養徳国
   といふは、いわゆる倭奴国なり。邪馬臺は大和の訓なり》
     、とのべているのです。
  ここでとうとう「邪馬臺=邪馬台=ヤマト=大和」の等式が
成立したのである。
 その次が荒井白石(江戸中期の朱子学者)、そして本居宣長
 (江戸中期の国学者)へと、。
   江戸時代から明治・大正・昭和そして今へと連綿として
 三国志の中の「邪馬壹国」を「後漢書」(倭伝)のなかに
 卑弥呼の居た国の名を見出そうとしているのです。
  そして歴代の歴史学者、国学者によって「邪馬台国」病に
  冒され続け、未だその病魔から治癒しきれていないのである。
  
  真実の歴史を知るのが恐いから、真実の歴史から目を
  背けようそむけようとしているのです。 

  そうなんです。三国志には「邪馬台国」はなかったのに!!

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