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zoom RSS Aついに「邪馬壱(台→壱「壹」)国」を標榜する歴史資料館が現わる

<<   作成日時 : 2016/02/02 23:06  

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下記が前ページでご紹介の古田氏がまとめた史料です。

帝紀より・・・、
(1)<史料>【(景初)二年春正月、大尉司馬宣王に詔して、
  衆を師ゐて遼東を討つ。】
                         <魏志三、明帝紀>
・・・景初二年正月、明帝は公孫淵討伐の詔勅を発し、討伐軍
の統率を司馬懿にゆだねた(古田氏解説)。・・・

(2)<史料>【(景初二年八月)丙寅、司馬宣王公孫淵を襄平
   (じょうへい)に囲み、大いに之を破る。淵の首を京都に伝
   え、海東の諸郡平かなり。】
                         <魏志三、明帝紀>
・・・景初二年八月、司馬懿は遼東の公孫淵の首を切り、洛陽
に帰った(古田氏解説)。・・・

(3)<史料>【(景初二年)十二月乙丑(いつちゅう)、帝寝疾
   不豫。............帝の疾に及び、飲水験無し。】
                         <魏志三、明帝紀>
・・・景初二年十二月、明帝は急病を発し、薬水効なく、急激に
   悪化するにいたった(古田氏解説)。・・・

(4)<史料>
  【@景初三年春正月丁亥(ていがい)、.......即日、嘉福殿に
     崩ず。】
                         <魏志三、明帝紀>
  【A景初三年正月丁亥朔、帝、病甚し。及ち立ちて皇太子た
   り。是の日、皇帝の位に即く。大赦す。】
                         <魏志四、斉王紀>
・・・翌月に当る景初三年正月、はやくも明帝が死に、斉王が位
  を嗣いだ(古田氏解説)。・・・

(5)<史料>【(景初三年)十二月、詔して曰く「烈祖明皇帝、
   正月を以て天下を棄背し、臣子永く忌日の哀を惟ふ。其
   れ復『夏正』を用ひよ。先帝三統之義に通ずるに違すると
   雖も、斯亦礼制の由りて変改する所なり。又『夏正』数に
   おいて天正を得と為す。其れ建寅の月を以て正治元年正
   月と為し、建丑の月を以て後の十二月と為す。】
                        <魏志四、三少帝紀>

・・・景初三年十二月、斉王は詔勅を発し、「一年間先帝の喪
   に服していたが、年も改まるから、停止していた諸公事を
   再びはじめる」ことを示し、年号も「正始」と改めることを宣
   布した(古田氏解説)。・・・

                 ・・・・・・・・・・以上、帝紀からです。

そして・・・、
以下に(1)〜(5)(景初二年〜正始元年)の期間に該当する、
「東夷伝序文」、「魏志韓伝」、「魏志、公孫伝」、「魏志、劉劭(り
ゅうしょう)伝」などの記述も提示しておきますす。

【a、景初中、大いに師旅を興し、淵を誅す。又、軍を潜めて海
  に浮び、楽浪・帯方の郡を収め、而して後、海表謐然、東
  夷屈服す。 ・・・・・・・・・・・・・<魏志三十、東夷伝序文>】

【b、景初中、明帝密かに帯方の太守劉マ(りゅうきん)、楽浪
  太守鮮千嗣(せんうし)を遣わし、海を越えて二郡を定めし
  む。    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<魏志三十、韓伝>】

上記、a、b、の記述を古田氏はつぎのように解説しています。
(明帝は公孫淵討伐の宣言を発してのち、ひそかに軍を海上
より朝鮮半島に送り、先ず楽浪・帯方の二郡を制圧させた。)

【c、(景初)二年春、大尉司馬宣王を遣わし、淵を征せしむ。
  六月、軍遼東に至る。.......遂に軍を進めて城下に造(いた)
  り、囲塹(いざん)を為す。会(たちまち)霖雨(ながあめ)三
  十日、遼水暴長し、船を運(めぐら)し、遼口より径(ただち)
  に城下に至る。雨晴れ、土山を起し、櫓(やぐら)を修め、為
  に石を発し、弩(いしゆみ)を連ね、城中を射る。淵窘急(き
  んきゅう)す。糧尽き、人相食い、死者甚だ多し。将軍楊祚
  等降る。】          ・・・・・・<魏志八・二、公孫伝>

【d、景初中、詔を受け、都官考課を作る。........又以て、宜しく礼
を制し、楽を作すべし、と為し、以て風俗を移し、楽論十四篇
 を著はす。事成りて未だ上(たてまつ)らず。会(たまたま)明
 帝崩ず。施行せず。】
         ・・・・・・・<魏志二十一、劉劭(りゅうしょう)伝>

追伸・・・
今ページをまとめあげる段階で古田氏の訃報を新聞で知りまし
た。もう少しのところだったのにサゾ残念の極みだったでしょう。

しかし、これだけ膨大な『邪馬壹国』の史料を残していってくれ
たのだから、あとは時間の問題。真実の歴史が顔を出し始め
ています。

真実の歴史を追う『邪馬壹国』派・・・がんばれ!!!。

次ページもよろしく・・・では。

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