ハナサンピン

アクセスカウンタ

zoom RSS @ついに「邪馬壱(台→壱「壹」)国」を標榜する歴史資料館現わる

<<   作成日時 : 2016/02/02 23:02   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

昨年の正月(2015年)の話になりますが……、
その正月の年賀のご挨拶の際、私の歴史友達の河田氏より
(「2014年古田武彦九州講演」があったようです)ということを耳
にし、その講演内容をYouTubeで拝見。

古田氏は講演の中で、“九州の古賀市歴史資料館では「邪馬
台国」が原文どおりの本来の国名である「邪馬壱国」へと再改
定された年表が展示されている”・・と弁舌されていました。

これには本当にビックリ。

まさか・・、と思い「古田史学会・四国」を代表する松浦秀人氏サ
イトの「梅花香る邪馬壱国の旅」の中で「古賀市歴史資料館」の
紹介欄でその事実(写真)を目の当たりにすることになりました。
それが下の訂正張り紙年表です。
画像
左の年表をご覧になればお分かりの
ように、「壹」の文字が「邪馬台国」の
「台」の上に張り紙され、卑弥呼の時
代の倭国の国名、そうです!それは
まさに「邪馬壱国」です。それがはっ
きり示されているではないか。

古田氏の説が浸透してきて、「邪馬
壹国」の夜明けが近くなっているの
かな・・・ぁ、と実感。感慨深い正月に
なれました・・・と、河田氏の御案内に
感謝しきりの正月となりました。


ですが、どうでしょう・・・、
上の張り紙年表の右から二列目の
二三九……。二と三の下の九の張
り紙。いったいこれは何んでしょう。
原文では「景初二年(二三八年)」と記載されているところだか
ら………、
もともとの張り紙の下には(二三「八」)が書かれていたのかも
知れない。……ここも、原文通り(二三八年)と張り紙してあれ
ば、わたしは両手を翳してアッパレあっぱれ…と、九州王朝賛
歌の荘厳な(君が代)を歌うところだったのに残念無念!!。

案ずるに、もし、「壱」も「景初二年」も両方とも原文通りに張り
紙訂正を強行した場合を考えると…、ここまでは邪馬台国派と
して手を取り合ってきた仲なのに…“そこまでやるか!”、の怨
嗟の声で、はみ出しを食らい、日干しの目に遭うかも知れない、
……等々、あれこれ悩んだ末の双方穏便をはかっての(239)
年の張替えとなったのかも知れませんね。

・・・で、まずはここで、われわれを悩ます魏志倭人伝の「問題
の記述の一文」を原文で見てみることにします。

……………………………………
・・景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣
り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、
将って送りて京都に詣らしむ。

その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王
卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升
米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口
六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、
乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。
今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の
太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順を
なせ。

・・汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升
米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬
を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地ス
ウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる
所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ
五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹
各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到ら
ば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知
らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。

・・正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬
を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・
錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を
答謝す。
             ……………………………………………
  ・・・・となっています。

ここで、改めての念押しですが、原文ではしっかりと「景初二
年」となっていることにご注目いただきたいと思います。

上記原文の記述を見て、その違いがお分かりになるように…、
「古賀市歴史資料館」を悩ませる原因が何であったかを考える
に…、やはり、下にあげる、江戸時代よりの国学者や儒学者
達によって築きあげられてきた、「邪馬壹国」→「邪馬臺国」→
「邪馬台国」へ連れてゆこうとする「邪馬台国思想」からくるも
のなのかと、つくづく残念に思っているところです。

今現在でもわれわれを悩まし続ける彼らの論拠がどこからき
ているのか、一応ここで確かめてみることにします。

(A)新井白石の『古志通或問』で・・・、
【魏志に景初二年六月倭女王祖大夫をして帯方郡に詣りて朝
献せん事を求む。其年の十二月に詔書をたまはりて親魏倭王
とすと見えしは心得られず。遼東の公孫淵滅びしは景初二年
八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至る
べきにあらず
。】(……として、公孫淵の勢力下の韓半島は戦
禍の中のこととて危険極まりなく通れるはずはない。それ故倭
人伝の原文の景初二年を戦後の「三年」に改訂して読むべき
である、としている)。

(B)また、松下見林は・・・、
【景初二年の「二」、日本書紀に拠るに、当に三に作るべし。】
と、一刀両断…。

(C)そして、明治の内藤湖南も…、
【景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年
に作れるを正しとすべし。倭国、諸韓国が魏に通ぜしは、全く
遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは
景初二年八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに
至らざりしなり。梁書にも三年に作れり
】・・・。

など等、三氏の主張を要約すれば…、
●新井白石は““公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道
(帯方へ行く道)未だ開けざらむ””…。
●また、松下見林の““日本書紀に拠るに、当に三(景初三年)
に作るべし””、<日本書紀も梁書より引いたものと考えられま
すが、梁書では、““至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣
使朝貢””と記されています。これは、〔魏の景初三年(239年)
に至って、公孫淵が誅殺された後、始めて卑彌呼は使を遺わ
し朝貢した〕…と、『梁書』を著した姚思廉は「倭人伝」の記述を
解釈(私の目には曲解にみえます)している>。
●そして、内藤湖南も““淵の滅びしは景初二年八月に在り、
六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書に
も三年に作れり””…。          …………となっている。

上にあげた先達の三氏は当代きっての学者達です。その有名
な学者たちが、@“其道未だ開けざらむ”、A“当に三に作るべ
し”、B“六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり”
…、と、各氏、後代(五世紀)の平和の時代の感覚で著された
「梁書」から、または、その「梁書」から引用した『日本書紀』の
「景初三年」を孫引きして「景初三年」が正しいとして説明して
いますが、五世紀の平和の時代に生きた姚思廉は自身の生
きた二世紀前の実状況を把握しての提唱だったのでしょうか。

上記の先達の各氏も「梁書」に依拠するかのように、個人の主
観と言われても仕方がない観念論的な論述を展開しています
が、真に彼らは魏志全体を見据えた末の論定なのでしょうか。
はなはだ不審です。

私も数年前までは、歴史に関しては右を調べても左を見ても
何も分からず屋のズブの素人。
今でもその通り歴史音痴なのは先刻ご承知の通りなのです
が、そんなド素人の私にでさえ、古田氏の「邪馬台国はなか
った」の中であげられている「帝紀」や「列伝」に一目だけでも
通せば一目瞭然…、「景初三年」の卑弥呼の遣使は間違い
であることに気づくはずなんですが・・・。
偉い学者さんの頭は一体どうなっているのだろうか。
なぜ!(「景初二年」を間違い)というのだろうか。計り知れま
せん。

今、私は傍らに一冊の本用意しながらブログを書いていま
す。古田氏著の「邪馬台国はなかった」という本です。この本
の中では、氏は我々素人向けに「魏志」を通観できるようポ
イントポイントをピックアップして、分かりやすく詳しく解説して
います。
(次ページに古田氏が要約された史料を紹介しておきますの
 で、それを参考にお読みください)。

その分かり易い本とともに、私の拙作の下記の対比年表を
見ながら、「景初三年」説の非を説いてみることにします。

下が上記でいう、「景初二年」、「景初三年」、「正始元年」に
おける「魏志帝紀」と問題の倭人伝の「制詔文を含む詔書」
との対比年表です(表の右側が問題の「倭人伝」の一節の
要約です)。
(図ー1)
画像












彼らの言う「景初三年」説に100歩譲って・・・、
倭人伝の魏朝への朝見とその後の詔勅の「景初二年」を「景
初三年」にスライド(置き換え)した場合を考えてみます(この
ときの前提条件として、上の対比年表の左側の「魏志、帝紀」
を基準尺として考えることにします)。

(帝紀でいう)「景初三年」ということになると・・・、その春正月
に明帝が崩御となり、その後を継いだ少帝(斉王)が、立太子
から即、帝位につき、朝廷の(服喪の一年)を取り仕切る年に
当たっています。

ここで言う(服喪の一年)とは次の三つの記述から推察するこ
とができます。
(1)(『魏志劉劭伝』の「景初中、詔を受け、都官考課を作る。…
………又以て、宜しく礼を制し、楽を作すべし、と為し、以て風
俗を移し、楽論十四篇を著す。事成りて未だ上たてまつらず。
たまたま明帝崩ず。施行せず。)・・・の記述は、(礼制を作り、
楽論十四篇も著し、公孫淵討伐後の国家体制も整えつつ、そ
れを明帝へ上程しようと思っていたところ、たまたま明帝の突
発病死に会い施行せずじまいとなった。)…ということを表す
文章で、つまり景初三年春正月に明帝が崩じたことから即、
そこで、予定されていた諸公事・諸儀典が取り止めとなったこ
とを告げる文章と思われます。………、と同時にそれはまた、
ここの時点から服喪の儀式の開始を告げる文章となっている
ことに気付きます。

そして次の…、
(2)(『魏志三少帝紀』の「景初三年(239年)」十二月、詔して曰
く「烈祖明皇帝、正月を以て天下を棄背し、臣子永く忌日の哀
を惟ふ。………中略………其れ建寅の月を以て正治元年正
月と為し、建丑の月を以て後の十二月と為す。」>・・この内容
は…、““臣子永く忌日の哀を惟ふ””…と言うように、(弔いも
永く続いてきた)ことと、(元号変更の話)も出ていることから…、
(元号改めの記述は)、少帝(斉王)の時代に入ることを意味し
ているので……、
この(2)の記述の時間的経緯から見れば、結局、服喪の終わ
りを告げる文章となるのではないか。

(3)さらに、『劉劭伝』には、(1)の続きがあります。
服喪の期間に関しての傍証となり得る記述です。
………「正始中(240年〜)」として………、
…劉劭は「経を執り、学を講ずる」…と、いとも簡潔に書かれ
ています。

「経を執り、学を講ずる」の宣言が毎年恒例の行事であったと
したならば、上記のように特別に、(伝紀)にわざわざ記載され
ることもなかったはず、 それを、「経を執り、学を講ずる」…と、
改めての記述は…、
「景初三年の春正月」の(明帝)亡き後の(斉王)の新体制下
の新しい組織のもと、「(新しい)経を執る、(新しい)学を講ず
る」ことを宣明する記事ととれるので、「正始元年」の年頭で
なければ意味を成しません。
……、年頭の表明ということになれば、「景初三年」春正月か
ら続いてきた服喪の儀式も「景初三年十二月」をもって終わ
ることを意味し、これらの(1)(2)(3)の記述から推察すれば、
服喪の期間は「景初三年春正月」から「景初三年十二月」ま
での約一年間続いてきた、ということを意味しているのでは。

このように、服喪の期間が「景初三年」の一年間であることを
踏まえて、卑弥呼の「景初三年」遣使を考えると、まさに、そ
の服喪の真っ最中の六月に魏国への貢献ということになって
しまいますが、形式だけのあのような些少の貢物持参で、な
んの緊急性を要する朝貢であったのだろうか。
常識的に考えれば、そんなん“有り?”、と誰しもが一笑に付
すだけなのに。

公孫淵討伐後の(ホッと)ひと息ついた安堵感の中、しかも公
務一切が停止状態で、朝廷あげての神聖で厳粛な雰囲気の
中、卑しき身分の夷蛮民族の倭国の使者を迎え入れ、魏朝
廷人たちとともに服喪の儀式に同席し、拝ませてくれたという
のでしょうか。
たとえ、拝ませてくれたとしても、なぜ、服喪の真っ最中の「景
初三年六月」でなければならなかったのだろうか。緊急な用事
でもあったのだろうか。

また、
公孫淵討伐後の戦勝祝賀会へのお招きとしての入朝とも考え
られなくもないようですが、しかし、それもすでに、「景初二年」
十二月、司馬懿が遼東より帰還後の(明帝)存命中(「景初二
年十二月中」)に盛大に催されていたと考えるべきで、これに
も当てることができません〔司馬懿の本隊が公孫淵討伐のた
め洛陽を出発する際、明帝に発した言葉に“一年の猶予を与
えられれば事足りん”、があります。その発言どおりに…、
洛陽を「景初二年春」に出発、計画通りに「景初二年八月」に
公孫淵を討伐、そして「景初二年十二月」に帰還、即、そこで
祝勝会に臨んでいた、という経緯を読み取ることができるの
では。
尚、この“けだし名言(私の名づけですが)”は後々も論証する
によき傍証として引用させてもらうことになりますが〕。

それとも…、
明帝の服喪の礼の儀式に六ヶ月間(六月〜十二月)列席した
暁には「親魏倭王」なる称号が手に入るかも知れない…、との
約束で魏朝廷入りを請い、その…服喪の礼の儀式への参詣
がめでたく適った結果が…、「景初三年」十二月の「親魏倭王」
の称号の授与の栄に浴せた、という話にしようというのだろう
か。

こんな旨い約束が成立するというなら、他の夷蛮も倭国と同
じように、「親魏?王」の称号を賜るために先陣を争って朝貢
に励んでいたはず(・・・それも、あんなにも少ない貢物持参
であのように多大なお返し品を賜る……というチグハグな対
応で理解に苦しむのですが)。

考えてもみて下さい…、
いわゆる「親魏倭王」なる称号は、単なる友好関係の親密度
を表す称号ではなく、両国が親分子分の関係を結ぶ盟約書
のようなもので・・・、
““倭国が(もしや)の時、即、魏国が守ってくれる””…、という
後ろ盾となるお墨付きを約束する証文と言えるのでは。

もっと言えば……、
下賜品の多さ比べや他の名誉称号の尊卑を引き合いにして
親密度を較べるものではなく、現代でいえば、戦後の日米安
保条約と同等の国家存亡を賭けた、いわば、両国家間の軍
事同盟の盟約書のようなものです。
そんな重たい約束事を“服喪の礼への参列”でペイさせてもら
えるという、そんな旨い話が三国志時代ならでは・・・と言いた
いのだろうか。

この「親魏倭王」なる称号制詔の裏には何等かの軍事同盟の
約束の上に賜ったものなのでは?、そうに違いない(・・・とわ
たしの心の奥底で叫ぶ声がして仕方ないのですが)。

また、もし、改元の詔勅の(儀典?)と「親魏倭王」の制詔や倭
国への下賜品贈呈の詔書の宣布を同時期(十二月)に執り行
った帝王が少帝(斉王)であったとしたならば……、
改元の詔勅の記事が(帝紀)にチャンと記載されているにもか
かわらず、「親魏倭王」なる制詔文を含む詔書宣布の記事)が
(帝紀)のどこを探しても見当たらない。これは一体どしたこと
なのだろうか。矛盾ですよね。

仮定として、それが史実であったとしても……、
少帝(8歳の幼帝)斉王が““閉ざされていた夷蛮の朝貢の道を
開いた偉大な帝王であった””…、という、魏朝廷にとっては大
いなる功績を国内外に誇示するに絶好のチャンスでもあっただ
ろうに、なぜ、それを記載しなかったのだろうか(幼帝でなくても
針小棒大に記載されていたはず)。
陳寿の律儀さをもってすれば、それくらいの配慮があってもしか
るべきなのに……配慮のカケラもないのが変です。

以上のように、冒頭に上げた先達は、確かに戦後だから安全
であるはずだ・・・として、「景初三年六月」遣使を捉えています
が、(帝紀)によれば魏の国は国を挙げての服喪の年……。
何の目的があって卑弥呼は服喪の真っ最中の六月に使者を
派遣することになったのだろうか。部外者ゆえ、邪険に扱われ、
追い出しを食らったのではないかと心配するのが精いっぱい
で、その先を考えることができません。

・・・とあれやこれや、いろいろ考えても「景初三年六月」遣使
と帝紀の年代対比では辻褄も合わせもできず、整合性を見出
すのも超無理です。

加えて、不審なのは……、たとえば、倭国の遣使の貢物の少
なさに対して、あの異常なほどの魏の返礼の下賜品多さはい
ったい何を意味するのだろうか。

「景初三年」で考えた場合は……、
歴史の機微も臨場感も感じられないのですが、皆様はいかが
お感じになりますか。

気を取り直して………、
しっくりこない、この不自然な流れを糾せるのは、やはり「景初
二年」の遣使への再スライドしかない……と思うのですが。

チョッと待てよ……、倭人伝の原文の中で、も一つ重要な矛盾
らしき記述のあるのが見えてきました。

倭人伝で云う・・・・・・・、““難升米・牛利に付す。還り到らば録
受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らし
むべし。””・・・と言うがごとく……、
“難升米・牛利に付す。還り到らば”のように、“倭国へ還って
からの下賜品の取り扱いについての指示”と共に、“難升米・
牛利に付す”、と言い切っているのであるから・・・、
倭国に帰るまで(もしや〔実際は倭人伝の陰で明帝の死亡事
件があるのですが〕)の事態でも生じなければ、(難升米・牛
利)が下賜品を直接自分たちの手で倭国に持ち還ることを約
束する宣布であったはずなのに…、それを“???”と思わせ
る「正始元年(240年)」の倭人伝の記事。

仮に、少帝(斉王)自身が前年(「景初三年」)の十二月に、上
記の「詔書」内で持ち還る約束を難升米・牛利と交わしていた
ことになっていたとすれば、直接、難升米・牛利等がトックに
手に持ち帰っていたはずだから、話はそこで終わって、「正始
元(240)年」の返礼の旅はなかったはず。
それを、その翌年(240年)に、何の理由も告げずの魏側から
のわざわざの下賜品贈呈の旅への(おまけ?)変更。

難升米・牛利の朝貢のタイミングのあまりの良さに喜びすぎて、
詔書内容を忘れ、下賜品返礼の旅への変更となったというの
だろうか。それとも……???、キツネにつままれたようで理
解不能。あとを続けることができません。

このように理解不能に陥る原因は明帝死亡事件にあると思う
のですが、偉い先生方はこの明帝死亡事件に対して一切触
れようとはしていません。こんなにも重大な事件を置き去りに
して微妙な時期の倭人伝を正確に読めたというのだろうか。

彼等先達は(明帝)の死に対し何の留意性も感じていなかっ
たゆえ、「景初三年」遣使の安易な道を選んでしまったのでし
ょうか。

上記体比年表の「帝紀」の(3)に注視してみてください。
<史料>【(景初二年)十二月乙丑(いつちゅう)、帝寝疾不
豫。   ............帝の疾に及び、飲水験無し。】
…と、急病を患ってしまった……、と書かれ、そして、「景初
三年春正月」には【景初三年春正月丁亥(ていがい)、.....即
日、嘉福殿に崩ず。】…と、死亡記事が明々白々に書かれ
ています。

思うに……、
「親魏倭王」の制詔文発布や下賜品贈呈の詔書内容の宣
布直後で、プツンと話がチョン切れているように見えるので、
その宣布の直後に上記の(明帝)の死亡記事を置いてみれ
ば下記のようにに納得できる筋書きになると思うのですが。
     …………………………………………
(明帝)の突発病によって「景初二年十二月」に宣布された
詔書内容の下賜行為が実行に移されないことになり、やむ
なく、卑弥呼の使者もなにも持たずに手ぶらで帰国すること
になった…。
そして、
「景初三年春正月」から(明帝)死亡による服喪の儀式が
「景初三年十二月」まで執り行われ。翌年には(斉王)の時
代に入ることにより新しい元号「正始」に改められることに
なった。

そしてその後、いかなる理由(この理由も後に述べますが)
があったかはわかりませんが、(明帝)の遺志を継いだ(斉
王)からの「正始元年(240年)」の下賜品贈呈の返礼の旅
へとなった。・・・・・・のではないか、と。
                  ………………………………。
このあらすじから考えれば、卑弥呼の遣使は「景初二年」の
六月がピッタリ。卑弥呼の機を見て敏なるものを感じること
もでき、明帝の(卑弥呼持参の些少な貢献物に対して、あ
のような多大な返礼品下賜行為が示す)喜びようも納得す
ることができる故(明帝のこの喜びは後で述べますが、「景
初二年」春前後に何らかの軍事協定があり、それを着実に
遂行したことに対する喜びだったのでは)、ここ「景初二年
六月」しかないと思うのですが(次ページに示す<魏志、公
孫伝>の記述を見れば、「景初二年六月」の時点では公孫
淵討伐の趨勢もほぼ決まった頃であるゆえ、楽浪・帯方両
郡領域は安全となっているはずだから)如何でしょう。

以上、倭人伝と帝紀の比較論から推察するに、「景初三年」
遣使は矛盾山積。疑問符や不審問が次から次へと噴出…、
容易に結論も出にくいでしょう。いや!、出るはずがありま
せん!。
               
更にさらに……、
もう一つあります。角度を変えて、少し戦況の中に少し立ち
入った話で、その戦況の中から「景初二年六月」時の楽浪・
帯方両郡領域が安全であったかどうかを探る論証です(ここ
では、「帝紀」に加えて「魏志公孫伝」の史料を添えさていた
だくことにします。この史料ももちろん先に御紹介の古田氏
著本からの引用です)。

この戦況を一目で分かるよう二つの図を下に示します。
(襄平城を含む遼東郡、楽浪郡、それに帯方郡の位置関係
を下の図とその下の地図とで示します。尚、下記の両図もあ
るサイトからの加筆引用です)
(図ー2)
画像















襄平城の位置です(青まるで囲ったところがその襄平城です)。
(図−3)
画像



















(図−2)をご覧ください〔(図−3)はご参考までの地図で
すのでよろしくご拝見のことを〕。

図の@の数字は、劉マと鮮千嗣が楽浪・帯方の両郡を制圧
した時期を表すもので、討伐作戦の一番最初と思えたので、
考え直して、一番目を表す@の番号で示すことにしました。

この考え直しについては…、実のところ、今ページを書き
始めのころは……、
<史料>(1)の【(景初)二年春正月、大尉司馬宣王に詔し
て、 衆を師ゐて遼東を討つ。】の記述、つまり「景初二年春
正月」、の時点を公孫軍討伐作戦のはじまりだったのではと
思い、この記述を一番最初の戦いの@で表そうか、と考え
ていました。
・・・・・が、更に『邪馬台国はなかった』を読み進めてゆくうち
に、<史料>(1)よりも前の段階と思えるような、史料《a、東
夷伝序文》と《b、魏志韓伝》)の両記述(今ページの最後に
掲載します)に直面し、この両記述の楽浪・帯方両郡制圧戦
が<史料>(1)に先行する戦であったことを認識、結局この
両記述を公孫淵討伐作戦に入る前の端緒の戦いとして位置
づけ ナンバー@に据えなおすことにしました。
〔尚、(図ー2)中で@と矢印は劉マ・鮮千嗣が中国側から海
 を越えて楽浪・帯方両郡領域に攻め入ったことを示すもの
 で、これを公孫淵討伐の一番最初の戦いとみなす図です
  が、いかがでしょう〕。

この“据えなおし”の根拠、その(A)として…、
下記の史料《a、東夷伝序文》と《b、魏志韓伝》)の両記述
には……、
【a、景初中、大いに師旅を興し、淵を誅す。又、軍を潜めて
  海に浮び、楽浪・帯方の郡を収め、而して後、海表謐然、
  東夷屈服す。 ・・・・・・・・・・<魏志三十、東夷伝序文>】
【b、景初中、明帝密かに帯方の太守劉マ(りゅうきん)、楽     
  浪太守鮮千嗣(せんうし)を遣わし、海を越えて二郡を定
   めしむ。    ・・・・・・・・・・・・・・・・<魏志三十、韓伝>】
・・・というように……、それぞれ“東夷屈服す”と“二郡を定
めしむ”、と書かれていて、当の公孫淵の名前も出てこない
ところから……、
(景初中)で表されている戦争は、公孫淵を直接攻める戦い
ではなく、準備段階としてまず、両郡に属す周囲の東夷を
屈服させ、公孫淵の治世から引き離し、公孫淵の足元から
根無し草の浮き草状態にする。
その結果、自動的に公孫淵は両郡から逃げださざるを得
なくなり、自身の本城の襄平城へ逃げ込む…、という、シナ
リオ作りのための戦争と考えれば・・・、
公孫淵討伐に向かう「景初二年春」以前、「景初一(元)年」
と考えるべきでしょう。

それを……、
司馬懿の本隊が襄平城へ向けて出発してからの制圧戦で
は後先が逆になって、公孫淵のその後の行動を確かめる
ことができずの出発ということになり(“けだし名言”)も生ま
れいず、確信的な最終戦の(襄平城に追い込む戦術)に
挑むこともできなかったでしょう。
やはり、ここは、出発前の戦争としなければ制圧戦の何の
意義も見出せません。

・・・それよりも、なによりも……、何の計算もなく、ただめく
らめっぽう、闇雲に攻めかかるだけでは公孫淵軍をチリチ
リばらばらに拡散逃亡させるだけで……、
最初にうち立てた目標の(公孫淵軍全体を襄平城へ“十把
一絡げに”まとめて殲滅する)の作戦は何処へやら・・・、と
いうことになりかねないでしょう。

よって、これら両郡制圧戦の時期は「景初二年春」以前、す
なわち、「景初一(元)年」と考えるべきであろうことを・・・内
心確信したところです。

下が、
上記の論述を踏まえた東アジア全体の勢力図です(「景初
二年春」以前、すなわち「景初元年」内の両郡制圧戦の終
了時点の図です)。

(図ー4)
画像















上図について少々のご説明を………。

私の推定する(「景初元年」から「景初二年春正月」以前
の時点)の勢力図ですが・・・、

(図−4)を見ると、韓半島の中央寄りを中心として・・・、
遼東の西側には司馬懿が。また、その南に位置する韓半
島の西側の楽浪・帯方両郡領域には魏朝廷側が定めた
両郡太守等が。それに、図の右上の(現在でいう)中国東
北地方には高句麗軍が。そして、韓半島中央で浮き草同
然の状態に遥動させられた公孫淵が(呉の孫権に助けを
求める使者の往来を)遮断するに重要な要諦領域の韓半
島南部には倭国軍が(この遮断作戦が司馬懿との同盟
関係の上に成り立った作戦か、倭国個人の発意によるも
のなのかはよくわかりませんが、この時の軍事協力が後
の「親魏倭王」称号授与につながったのでは、と私は考え
ます)・・・、と、韓半島全体を公孫淵を討伐する勢力が四
方に巡らされたかのようにグルリと取り巻いています。

尚・・・、
図中の(@高句麗軍)と(A倭国軍)の存在については
つぎの記述によって確かめることがでます。

@の高句麗軍については・・・、

「三国史記、高句麗本紀、第五、東川王」に……、
(原文)【東川王十二(238)年、魏太傅司馬宣王卒衆討
公孫淵。王遣主簿大加。将兵千人助之。】。
(この訳) ““魏の太傅(たいふ)司馬宣王(しばせんおう・
司馬懿)は大軍を率いて公孫淵を討つ。王(東川王・高
句麗の王)、主簿(しゅぼ)、大加(たいか)を遣わして、
将兵千人で之(これ・司馬懿の軍隊)を助く””・・・・・・、と
あります。

上記の記述を要約して、〔之(司馬懿の軍隊)を助く〕の
記述のごとく・・・、司馬懿が公孫淵を討つときに高句麗
王は、兵法に言う、“遠交近攻”の原理のもと、中国東北
地方の障壁となって公孫淵を遠巻きに(袋のネズミ)状
態にして(襄平城)へ追い込む、という、いわゆる、大包
囲網作戦に加わるよう応援を送っていた、ということを
表す記述です。・・・ということは、図中の(追い出し、追
い込み)作戦に高句麗軍の存在は明白ということになり
ます。

また、(三国史記、高句麗本紀)の記述に相呼応するか
のように、中国側の目から見る『魏志高句麗伝』にも同
じような記述があります。

“景初二年大尉司馬宣王率衆討公孫淵宮遣主簿大加
 數千人助軍正始三年宮・・・”  <魏志高句麗伝>
【 「景初二年(238)、大尉の司馬宣王は軍を率いて公孫
 淵を討ったとき、宮は主簿や大加など数千人を派遣し
 て軍を助けた。】・・・・・・と。

(三国史記、高句麗本紀)と <魏志高句麗伝>の記述
は公孫淵への(追い出し、追い込み)作戦に高句麗が援
軍を送っていたことを示していることになり、お互い同じ
ような話を載せていたことにななるので、魏と高句麗は
一時的にではあっても、ここで、軍事同盟を結んでいた
のでは、と容易に想像できます。

そして、Aの倭国軍についても同様に・・・、

その存在の証拠は、倭人伝のはじめの部分にあります。

【 倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢
 時有朝見者今使譯所通三十國從 郡至倭循海岸水行
 歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一
 海千餘里至對馬國・・・・・】の文中の赤文字「其北岸狗
 邪韓國」の、特に、(其その)という代名詞にあります。

(其北岸狗邪韓國・その北岸の狗邪韓國)の(其・その)
は、まさに、上記倭人伝の冒頭の(倭人)を受けた代名
詞ですから、(其・その)は(倭人)を指し、(其の狗邪韓
國)は(倭人の国の小国の狗邪韓國)ということになりま
す。
・・・このことから、倭国は韓半島南部の(狗邪韓國)領
域に領土を保有していたことになり・・・、(図ー4)中の
倭国の存在も明らかとなります。

倭人(倭国)はその狗邪韓國領域を拠点に韓半島南辺
で、倭国(九州)の対岸の(呉の孫権)と公孫淵と同盟関
係を遮断するかのようによう睨みを利かせながら、司馬
懿側に間接的な応援を送っていたことが伺われます。

(ここで、閑話休題を一つ・・・、
吉野ヶ里遺跡が三世紀半ば、卑弥呼の死忘年と時を一
つにして消滅していることを考えると・・・、親魏倭王の後
ろ盾をもらった卑弥呼は、呉の孫権の有明海からの脅
威もなくなったことに加え、倭国の防衛最前線は博多湾
岸方面へと切り替わった。そのために無用の長物化した
防塞都市としての吉野ヶ里はお払い箱となり、消滅への
道を辿っていったことは、“歴史が告げる自然の流れ”を
感じる今日この頃です。)…………。

倭人伝の時代に倭国が中国の三国に割って入りながら
活躍していたであろうことに対して、疑問を持たれる方の
ために、つぎの銘文のご紹介を。

その銘文は、「倭人字磚」という、磚(かわら)に刻まれた
文章のことで・・・「有倭人以時盟不」(倭人有り。時を以
って盟すること有りや否や)・・・という銘文です。

この「倭人字磚」は後漢末の建寧年間(168〜172年)
の時代の「安徽省亳県(あんきしょう・はくけん)の曹操宗
族墓群の中の「元宝坑村一号墓」から、多量の字磚が出
土した。その中の一枚に倭人という文字を含む銘文が刻
まれた「磚セン・かわら」についての話です。

この(倭人字磚)が教えてくれるのは・・・、
卑弥呼の生まれる四十年前(卑弥呼の死亡は〔247〜8
年〕であるから、生まれはおよそ〔210年〕頃と推定されま
す)から、『三国志』の時代に小国家としての一員ではあ
るが、当時、すでにそこに名を連ね、韓半島どころか、東
アジア全域における倭人の活躍が偲ばれ、想像を逞しく
させてくれます。
・・・で、『三国志』の時代での倭人は、その存在がかなり
クローズアップされ注目を浴びていたのだ!・・・と、ガッ
ツポーズ・・・・・・。

本論へ戻り・・・、
・・・はたして楽浪・帯方両郡制圧ののち、司馬懿が目論
んだとおり…、追い出しをくらい、(袋のネズミ)状態となっ
た公孫淵軍は北の遼東にある自身の本城の(襄平城)
へ向けて一目散に進軍、司馬懿の本隊と襄平城の内と
外で相ま見えることになって・・・、

そして、その果てが・・・、

前掲の対比年表の(帝紀)における(「景初二年春」から
「景初二年六月」、そして「景初二年八月」)の経緯中で、
(1)<史料>中の【Cの(公孫伝)の““(景初)二年春、大
  尉司馬宣王を遣わし、淵を征せしむ。六月、軍遼東に
  .至る。......遂に軍を進めて城下に造(いた)り、囲塹
  (いざん)を為す。会(たちまち)霖雨(ながあめ)三十
  日、遼水暴長し、船を運(めぐら)し、遼口より径(ただ
  ち)に城下に至る。雨晴れ、土山を起し、櫓(やぐら)を
  修め、為に石を発し、弩(いしゆみ)を連ね、城中を射
  る。淵窘急(きんきゅう)す。糧尽き、人相食い、死者
   甚だ多し。将軍楊祚等降る】

   ・・・の記述から・・・

(2)同<史料>【「明帝紀」の“・・・(景初二年八月)公孫
   淵を襄平城に囲み、大いに之を破る。淵の首を京都
   に伝え、海東の諸郡平かなり・・・”】、

   ・・・となってしまうのですが・・・、
司馬懿が目論んだシナリオ通りの決着(公孫淵の首を京
都に伝へ)を見るのですが。

また、その根拠その(B)として(この根拠の方がわかりや
すいかも知れませんが)……、

・・・・「景初中」といっても景初年号には「景初元年」と「景
初二年」、それに「景初三年」の三つの年次が存在するだ
けです。
そこで・・・、
「景初三年」は、公孫淵討伐(「景初二年八月」)後の、明
帝突然死(「景初三年春正月」)による(服喪の一年)とな
るので、その候補年とすることはできない。
また、「景初二年」は、…といえば、その春から十二月ま
での一年間は司馬懿の本隊が公孫淵討伐に明け暮れた
年ということになるので、結局、残るは(「景初一年」)のみ、
ということになります。

よって、根拠(B)から、両郡制圧の時期は「景初二年春」
以前、すなわち「景初一(元)年」ということになり、司馬
懿軍の本隊が洛陽を出発する前の、公孫淵のその後を
行動を見定めようとする様子見の戦いとするべきなので
は…。

さらに加えて、その理由の(C)として…、〔前記(A)でふれ
たように〕司馬懿の本隊が公孫淵討伐のために洛陽を出
発する直前に(明帝)の問いに応えた、“けだし、名言”の
中にもあります〔後代(300年後)の(唐)の時代に表され
た『晋書』ですが、西晋の流れを踏む(唐)であるゆえ、西
晋の史料と伝承を有しての記述と考え、真実により近い、
“けだし名言”、といえるのではないか〕。

【司馬懿は、敵の出方を問う「明帝」に次のように応えて
います。
……城を棄てて預(あらかじめ)逃げるは上策なり。遼水
(りょうすい)に拠りて大軍を距(こばむ)は次策なり。座して
襄平を守れば、此れ擒(とりこ)に成るのみ。
・・・と答え、「往(いき)に百日、還(かえり)に百日、攻めに
百日
六十日を以て休息と為す。一年で足りん」。と、凱旋
を約して出発した。……<晋書、高祖宣帝懿紀>】)
・・・、と、すでに洛陽を出発する時点で、〔「往(いき)に
、攻めに百日」〕、すなわち、「景初二年正月」から休息
(60日/2=30日・一ヶ月)を含んで約八ヶ月後(230日・約
八ヶ月後)の「景初二年八月」には公孫淵軍と相まみえ
て(淵の首を取る)という・・・、
司馬懿確信に満ちた応答は・・・、「景初一(元)年」の司
馬懿の本隊が洛陽を出発する前の楽浪・帯方両郡制圧
時に、その後の公孫淵軍の出方を確認からくる、“けだし
名言”という進言となったのではないでしょうか。

従って……、
(A)、(B)、(C)の根拠が示すように楽浪・帯方両郡制圧
戦は「景初二年春」以前の「景初一(元)年」となるのは明
らかで……、

前掲先達の(内藤湖南)が言う、“淵の滅びしは景初二年
八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至ら
ざりしなり”、の中の“太守を置くに至らざりしなり”は上記
(A)、(B)、(C)の証言に反することになります。

それを、先達の言うとおりに、“太守を置かれなかった”状
況にあったとしたら、(韓伝)には「二郡を定めしむ」などと、
仰々しくは書かれなかったはずです。
それゆえ、卑弥呼による、「景初二年」遣使を間違いと断
定する論理はかれら個人の常識的観念からくる、脆弱な
理論の上に成りたつ、いわゆる“砂上の楼閣”てきな論証
と言わざるを得ないのでは。

もう一つ残された重要な論証のあることに気付きました。

それは、「景初二年」六月の楽浪・帯方両郡領域は安全で
あった理由を述べることを・・・。
前掲(上図ー1)で、@の「景初一(元)年」の追い出し作戦
が予定通りの成功裏に終えていたと仮定すれば、AA
は「景初二年」春以降となっているので、その春以降、六ヶ
月を経た「景初二年」六月となれば、公孫淵全軍は北の襄
平城に入城して籠もりきりとなるゆえ、その状況の裏返しの
楽浪・帯方両郡領域を見れば、公孫淵軍はカラッポ状態と
なっていることに気付かれるでしょう。
それは、すなわち、楽浪・帯方両郡領域は安全領域となっ
ていることは(図−4)を見ての通り、ということになります。

・・・・・・以上ただの一年に長文の論証で迷惑千万と思われ
るかも知れませんが、文章力の無さゆえのお許しを請うもの
ですが………、
以上をもって、私の結論は、卑弥呼による魏朝廷への朝貢
は戦中の「景初二年」が正しく、「景初三年」は間違いであ
ることが判明しました。

従来の邪馬台国論者はこのようにして一年の誤差を事はじ
めとして、(「南」を「東」へ)、よりエスカレートして「壹」は「臺」
の誤りとして、究極は『邪馬(壹)国』を『邪馬(台)国』へ連れ
てゆこうとする様は、哀れ、というか何と無くの寂しさを感じ
てならないのですが皆さんは如何お感じになりますか。

(「壹」は「臺」の誤り)と注して、『邪馬台国論』を説いていま
すが、そんな論証無しの(注)にだまされてはなりません。

倭人伝には『邪馬壹国』は『邪馬壹国』と書かれているので
すから!。  ガンバレ!、飯塚歴史資料館。

今ページに古田氏がまとめた史料を紹介するはずでしたが
上記のように長文になってしまい、今ページに掲載すること
ができなくなってしまいました。

その史料をご覧になりたい方は、次ページにお進みくださ
いませ。あしからず。

それでは、今ページはこれまで、次ページもよろしく、では。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
@ついに「邪馬壱(台→壱「壹」)国」を標榜する歴史資料館現わる ハナサンピン/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる