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zoom RSS 遂に倭人伝の道程が解けた!。

<<   作成日時 : 2013/03/09 19:06   >>

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前ページまでの論証を終えるとき、前ページ最終グーグルアー
スに図を書き込んでいたとき、ハッ、と何か不思議な感覚に捉わ
れ、考えられないような図絵が思い浮かばれました。

“倭人伝の最終行路記事が完成していたではないか。”

われわれは・・・、
“倭人伝が辿った確かな道程を見付けることに成功した!”・・・
 のではないか、と。

すなわち・・・、
倭人伝は、魏使が実際、自身の目で見て確かめたことを正確に
記述していた・・・、と。

そんな感動をグーグルアースにてもう一度おさらいすることにし
ます。
@、韓国遍
画像











A、對海國(対馬国)・一大國(壱岐の国)遍
画像











B、九州(末盧国〜伊都国〜不弥国)遍
画像











上3図、特にBの九州遍は倭人伝の記述どおりに、ピタリと符
合していることに気付かれるのではないか。

・・・この図を書いているとき、私自身はそのことに気がついた
のです。もしかしたら・・・と。

・・・というのは、@、A、B、の行程を合計してみると分かりま
す。

・・・・・、7000里+4400里+600里=12000里、となってい
るこを確認できると思います。

すなわち、部分里程の総和がイコール12000里、となっている
ゆえ、それぞれの部分里程も確かな記述となった。
・・・、そして、これがわれわれにとって倭人伝の全てであるとい
うことを。

そして、真の意味の倭人伝の最後の検証はここからが始まりと
なるのです。

まず・・・、
鴻臚館、迎賓ロード、水城、大宰府の四つの施設の関連につい
て考えてみます。
・・・、作られた時点の状況のなかで考えてみると・・・、一体鴻臚
館は誰が何処からきたお客を、何処へ招き入れるために作られ
た施設だったのだろうか。
そして、そこから水城を突き抜けて大宰府まで一直線に伸びる
迎賓ロード。これも、誰が 何を目的として、何が通る道として
作られたのだろうか。

そしてまた、その迎賓ロードを監視するかのように横たわってい
る壮大な水城。これも一体、誰を、何を守るための防塁であった
というのだろうか。

まさか、近畿王家を守るための一連の施設・・・、などとは考える
常識人はいないでしょうが(大宰府は天智天皇が建設したもの
だ、と言い張る邪馬台国論者は別にして)。

そうです!水城は水城の奥にある大宰府を守るために作られた
施設であり・・・迎賓ロードも鴻臚館と大宰府の間を往来するため
に造られた施設ということが確かめられると思います。

外国から唐津へ船旅で降り立った賓客は、一旦鴻臚館で饗宴を
を受け、そこから迎賓ロードを、道路脇の民衆に“これ見よがし”
にデモンストレーションよろしく、軍事パレードがごときの行進を
していた風景が思い浮かばれます。

あるときには、事あればの緊急事態を告げるための高速道路
として使われたこともあったでしょう。

では、
これらの賓客、あるいは緊急事態の報告は何処へ向かって進ん
で行ったというのだろうか。

もちろん、大宰府へ、です(もちろん近畿王家ではありません)。

水城を突き抜けて三笠川の上流には、大野城跡を頂く大城山の
麓には大宰府条坊都市が広がり、また、その水城から振り返っ
て博多湾岸方面を遠望すれば、大宰府から一直線に伸びる迎
賓ロードを通って鴻臚館(迎賓館)に行き着きます。
そして、この両サイド、すなわち大宰府と鴻臚館の中心には、博
多湾岸方面からの緊急の事態を予測するかのように、卑弥呼ま
で遡りうるであろう時代造営の「水城」がドーンと居座っている。

そして、この四箇所の鴻臚館・迎賓ロード・水城・大宰府はワン
パッケージの施設に見えますが・・・、

一体、それは何を意味するのだろうか・・・。

◎水城は大宰府を鎮護するための施設である
◎迎賓ロードは大宰府までお客を招く際の、デモンストレーショ
  ンをかねた行軍を行う為のメインストリートである。
◎招かれた客は当然、水城の壮大さを目にしながら大宰府に立
  ち入って、国家間の交渉をしたはずである(楼観を目にしなが
  ら入ったであろうことを想像します。この想像は九州歴史博物
  館が描いた水城の構造からくるインスピレーションです)。

これらの関連性を切り離した成立と考えると、これらの四つ施設
が何を目的として造営したのかサッパリ見当も付かない考察に
陥るはずです。

すなわち、最初の水城が存在した時代(240年)、それと同時に、
大宰府や迎賓ロード、そして、鴻臚館も全て同時期の着工という
論証に落ち着くところです。

結果・・・大宰府は卑弥呼の宮殿であったということに帰結するこ
とになります。

以上の、仮定の上に仮定を重ねた論証に終わりましたが、邪馬
壹国を邪馬台国に変えて近畿に連れてゆこうとする説よりは、よ
ほどましな理論と思えるのですが、如何でしょう。

前ページでお約束した、“内倉氏が掲げる「理化学と(証言)が語
る古代 史」の中から放射性炭素14Cによる年代測定の事実と
それに 対する氏の論証”を次ページにて取り上げたいと思ってお
ります。
次ページもよろしく・・・、では。

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「遂に倭人伝の道程が解けた!。」というタイトルに騙されて(笑)久しぶりに拝見しました。

それぞれの方の趣味について口をはさむつもりもありませんが、ハナサンピンさんだけでなく、ネット上でも沢山の方が様々な主張をなさっているようです。

「邪馬台国は九州にあっただろう」ということには賛同できますが、「@、韓国遍」の道程は、私のような素人でも賛同できません。
図の陸路出発地点からプサンまで、草原であればまだ可能性はありますが、標高差があり、尾根や沢がある地形の所をお示しのような陸路を通るのは常識的ではないと思います。そうは感じませんか?。
遠回りのようですが、沿岸を水行する方が無理がないでしょう。
それから、ご自身でも「海岸に循ひて水行し」と書いていらっしゃるのに、へんてこりんなルートを主張するというのは論理的にも可笑しなことだと感じませんか?。

少しだけ、趣味の世界に口を挟みかけてしまいましたね。
憂鬱な日々
2013/03/10 19:19
久しぶりのコメントありがとうございます。憂鬱な日々な日々さんのご批判にお応えいたします。
まず・・・、“海岸に循(そ)いて水行し”、を(韓国を歴るに)“韓国の西海岸から漢半島の南岸沿いに、其の北岸狗邪韓国に到る7千里。・・・と読んでおられるようですが、その結果としてつぎのようなことをおっしゃっています。

>遠回りのようですが、沿岸を水行する方が無理がないでしょう。<・・・と。


卑弥呼が倭国を統治していたときは、漢半島最南端は倭国の領土でありました。たとえ魏使が倭国へ赴くとしても、倭国の領土である漢半島の南岸沿いを通ることは許されないと思っています。魏にとっては外国の領土だからです。

そして、文脈からいっても、そのようにはならないと思います。

倭人伝そのものは、“韓国を歴るに、海岸に循いて水行し”・・とはなってはいなく、“海岸に循いて水行し”の語句が先行して、そしてそのつぎに“韓国を歴るに”と続く文章となっているように見えます。
そこで、・・・わたしはつぎのような解釈をします。
@、郡より倭に至るに、海岸に循いて水行し。とここで  切り。
そして、
A、韓国を歴るに、乍ち南し、乍ち東し。
・・・と読む解釈のほうが適当かな・・・、と。
(韓国を歴るということは、陸地を通る、の意味が妥当で、決して海岸線を通る意味ではないと思っています)

ゆえに、文章構造から考えると、図の解釈が順当のように思えるのですが。

この続きは、つぎのコメントコーナーへ。

ハナサンピン
2013/03/10 23:51
また、魏志韓伝の記事を見てみると、
“韓は帯方の南に在り、東西海をもって限りと為し、南 を倭と接す。方四千里なる可し”
・・・、となっています。
この記述の意味は、西海岸沿いの距離四千里と、南岸沿いの距離、すなわち倭との境の東西の距離が四千里と等しくなっていることを示したものと思われます。

この記事と、憂鬱な日々さんのいう、>遠回りのようですが、沿岸を水行する方が無理がないでしょう。<、の文章を照らし合わせてみると・・・、
漢半島の西海岸沿いの距離と韓半島南岸沿いの距離を合計しなければならないことになり、(方「四千里」)+(方「四千里」)=八千里の計算になります。

ところが、倭人伝では“海岸に循いて水行し、から韓国を歴るに乍ち南し・・〜狗邪韓国”までの距離がトータル七千里となっているところです。倭人伝は千里短くなっています。

この一千里短い矛盾を古田氏は例の三角形の定理から、ジグザグ行進記述法で見事切り抜けたのです。

このジグザグ行進は、山や谷、そして川などの障害物を、たとえ通ってはいなくても計算上は通ったことにして、時の天子に奏上した時、一目で理解し易いように、簡潔に記述していた・・・。と、今のところはこのように理解しているところですが・・・。
ハナサンピン
2013/03/11 00:46
コメントありがとうございます。

私の「遠回りのようですが」は「仮に遠回りでも」くらいに捉えていただければ良く、八千里と七千里の差というのは考慮しておりません。
ちなみに、(方「四千里」)+(方「四千里」)=八千里の距離は、直角に進めばジグザグに行進しても八千里ですし、しなくても八千里です。

ハナサンピンさん自身が最後の方で「簡潔に記述していた・・・」と書いているように、「疑志倭人伝」が、そこに示された数値を始めとしてどれほど正確なのかから疑ってみても良いと思いませんか?。

そして、さらに(無理かもしれませんが)古田教の教義を少し脇に置いて、ハナサンピンさんの感覚として捉えたときに、尾根あり沢ありの陸路をジグザグに行くことがまともだと思いますか?。
ついでながら、最後にお書きのようにして、そのようなことを天子に奏上したら、「バカ野郎!」と一蹴されて処刑されるのではないかと心配します。

「計算上は通ったことにして」や「簡潔に記述していた」というのは、そのこと自体が「疑志倭人伝」の記述の正確さを当てにできないという宣言になります。

わき道にそれましたが、プサンまでは、韓半島の西側の、入り組んだ海岸線でしかも沢山の島々があるところを航行するために「南に行ったり東に行ったり」する方が自然だと思いませんか?。

その際「魏使が倭国へ赴くとしても、倭国の領土である漢半島の南岸沿いを通ることは許されない。」というのは・・・、理由になるのでしょうか?。私には理解不能な発想です。
倭国に行くのに、他国の領土を通るのではなく倭国の領土を通るなら、むしろそのほうがスムーズだと思います。

余計なことで、失礼しました。
憂鬱な日々
2013/03/11 19:40
>余計なことで、失礼しました。・・・、
いえいえ、そんなことはありません。憂鬱な日々さんのコメントが大いにハナサンピンを成長させてくれるのですから。心配なさらずにどんどんコメントをお寄せください。・・・、さて、またハナサンピンの説明不足が誤解を招いてご迷惑をお掛けしたようです。もう一度詳しいご説明をさせていただこうかと思います。
但し、ワンポイントのみです。
それは、>八千里と七千里の差というのは考慮しておりません。・・・の点についてです。

この里程が曖昧では、倭人伝の記述を丹念に追って行くことはできません。最後の結末が千里多くなったり少なくなったりは、それは、探すポイントが少しぶれるだけです。
少しのブレは後での修正が可能だからなのです。ところが、最初から千里ずれても構わない、と云うことになると、アチコチの里程が信用することができません。また、その場合は里程を示す必要もないでしょう。ただただ方向と全体の距離を示すだけで文章は成り立つところですから。
やはり、韓国から狗邪韓国までの旅は、“韓国を歴るに”となっているから、“これ見よがしの”デモンストレーションを兼ねて韓国の現地をアチコチを偵察し廻る旅、と考えたほうが理に適うと思いますが。また、ジグザグの距離5500里は、持ち帰ったデータが(アチコチぐるぐる回って視察してきたが)偶然そうなっていた、ということかも知れませんが。
ハナサンピン
2013/03/12 00:10
>韓半島の西側の、入り組んだ海岸線でしかも沢山島々があるところを航行するために「南に行ったり東に行ったり」する方が自然だと思いませんか?。

・・・の文章についての、簡単な説明の仕方がようやく思い浮かばれましたので、ここで一言ご説明を。

韓半島の西海岸沿いの距離と韓半島南岸沿いの倭国と接する境の距離が“方4000里”となることから、狭角60度をもつ平行四辺形を想定することができます。

その四辺形の鈍角の対角線上の陸路を、北から南の釜山までを、通れるところは“アッチへ行ったりコッチへ行ったり”と、障害物は避けながら、“デモンストレーションよろしく”隈なく偵察しまくった距離の記録を持ち帰り計算したら・・・、まさに、それがジグザグ行進の距離と等しかった・・・と。

三角形の二辺の距離が等しく、その内角が60度ということになると、その三角形は正三角になります。この結果、対角線上の距離も4000里となるゆえ、ジグザグの距離が約5500里となります。そして、残りの1500里は、出だしの“(郡より)水行して”の距離に当てはまる・・・と。

そしてこの記録を時の天子に奏上した・・・と。
(今のところは、このようなことしか思い浮かべることができませんが)


も少しのつづきは次のコメントコーナーで。

ハナサンピン
2013/03/18 07:21
>倭国に行くのに、他国の領土を通るのではなく倭国の領土を通るなら、むしろそのほうがスムーズだと思います。
・・・これについても、時代背景を考慮に入れると少し違うような気がします。

魏の明帝が燕の公孫渊を打ち破った直後の韓半島です。この戦いで、魏朝廷への応援のために倭国も参戦したことも予想されるので、韓半島南辺の倭国の領土もいまだ不安定な状況下にあったものと考えなければなりません。この状況を踏まえれば、魏使がわざわざ危険な道程を選ぶことは考えられず、それは非常識な推測に見えますが、如何でしょう。
公孫渊側の残党がどこで待ち伏せして隠れているか分からない世の中です。

このように考えると・・・、
韓半島南辺の倭国の領土も、その南辺沿いの島々も危険
を多く孕んだ航路で、よりによってそんな韓半島南辺を“南へ行ったり東へ行ったり”のノンビリの島巡りの遊覧船航行を思い浮かべると、何のための倭国への訪問であったか、よく分からない想定図となってしまいます。

この結果、西海岸沿いと南辺海岸沿いの航路は、なにか無駄な旅に見えて仕方在りません。

なにやら、ゴダクを並べたようですが、このつづきは次のコメントコーナーにて。
ハナサンピン
2013/03/20 00:21
もう一度、倭人伝の構文から海路航行の非を述べてみたいと思います。

倭人伝での実際は、次のように言っています。
“従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。”・・・と。

しかし、帯方郡から狗邪韓国までをすべて水行とする読み方は、原文を次のように替えなければ読むことができません。
“従郡至倭、歴韓国、循海岸水行、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。・・・と。

これなら微妙ではあるがかなり近い線で読むことも可能でしょうが、どうでしょう?。
そうです・・・、“歴韓国”と“循海岸水行”の順序を逆に置き替えて読んでも大勢に大した影響もないでしょうくらいな気分でいるのでしょう。

ここが一番重要な箇所と思っているところなのに。

あー、それなのに、それなのに・・・、

倭人伝の命と思っているところを,あだやおろそかに遣り過ごすと、必死こいて韓国を斜めに縦断して偵察し回った魏使の連中が墓場の影で嘆いていることでしょうに。

そしてその結果、千里も違う曖昧な里程記事は“信用は置けない記述”、として・・・、倭人伝をソッチノケにして卑弥呼の宮殿をアッチへ持っていったりコッチへ連れてきたりと、好きなように弄くりまわされて終わるかも知れません。

倭人伝の記事についての、ハナサンピンの考えは・・、

魏使が実際彼等の目で見た実際の歴史を綴ったものとの認識で、充分信用の置けるかなり正確な史料だと思っています。そして、それを一つ一つ丹念に追って行けば卑弥呼の宮殿に必ずや到達できる歴史書だと信じて、アホな頭で今も研究しているところです(C14測定法と共にですが)。

グチッぽいコメントで終わりになりりましたが、あしからず・・・。
これからもよろしくお願い申し上げる次第です。
ハナサンピン
2013/03/20 20:08
2013/3/20 00:21のコメントには「魏の明帝が燕の公孫渊を打ち破った直後の韓半島です。この戦いで、魏朝廷への応援のために倭国も参戦したことも予想されるので、韓半島南辺の倭国の領土もいまだ不安定な状況下にあったものと考えなければなりません。」とありますが、予想に想像を継ぎ足した推論は説得力に欠けます。Wikには「公孫淵の領土は帯方郡と楽浪郡であった。」旨の記述と、「公孫氏滅亡が、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡(魏)に使を派遣することにつながった、との説がある。」との紹介があります。
仮にWikの解説も予想と想像だとしても、そちらの方がまだ説得力があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%AB%E6%B7%B5

「女王の国は九州にあったのではないか」と想像している者ががっかりするのではなく、なるほどと思える説を目にしたいところです。
ハナサンピンさんとは真逆な想像ですが、その方法論として、疑志倭人伝を精緻に捉えようとすること自体が間違いなんだと思います。
憂鬱な日々
2013/04/04 23:10
>疑志倭人伝を精緻に捉えようとすること自体が間違い・・・。

この「精緻」とは何を指しているのでしょうか。

私の場合で、この「精緻」の意味を考えると・・、トータルで12000里のところが、よくよく地図上計測したら12000里とはならずに13000里、あるいは10000里足らずの距離になっていたではないか、の精密度を比較する「精緻」ではなく・・・、倭人伝に盛られた数値が、軍事会議の議論の上で、計算上、なるほど!と相槌を打て、誰でもが納得できる距離のことを指す意味と受け取っています。
・・・ですから、この7000里の数値は倭人伝の中では命であり、それは大事にしながら読まなくてはならない箇所と思っているところです。
簡単に言えば、12000里で結果オーライ、ではなく途中経由の一歩一歩の理論の積み重ねが大事・・・、ということになるのでしょうか。

そして、
>「公孫氏滅亡が、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡(魏)に使を派遣することにつながった、との説がある。」との紹介があります。

・・・公孫渊打倒後は、韓半島の南部は全て帯方郡管轄の領地となっていた、を証明するために、この記事を引用されたのでしょうか。すなわち、韓半島の南岸には倭地が存在していなかった・・・の。

もしそのようであれば、倭人伝を誤解して読んでいることになります。

倭人伝に“其の北岸狗邪韓国に至る”、とあります。
この(其の)は、倭人伝の冒頭の“倭に至るに”、の「倭」を受けた語句ですから、さなわち“其の”は倭国ということになります。
・・・ということは、“其の北岸狗邪韓国”とは、韓半島の南岸の一地域である狗邪韓国を指していることになり、当然、韓半島南岸は倭地、であったことになります。

つぎも、
次コメントコーナーに続きます。
ハナサンピン
2013/04/05 17:51
>「公孫氏滅亡が、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡(魏)に使を派遣することにつながった、との説がある。」

この文章の引用に対しても、私なりの受け止め方、すなわち戦中遣使をとる立場で説明させていただきます。

憂鬱な日々さんが紹介してくれた、Wikの後半部にも今ご提示の“公孫氏滅亡後、卑弥呼が使を派遣することにつながった”の意味と真反対の説を唱えている人もいる、との紹介もあります。

すなわち、戦中遣使もあるのではないか・・・と。

魏が公孫淵の喉元を真綿で徐々に締め付け、公孫淵敗戦が濃厚となったその瞬間(景初2年六月)、卑弥呼がそれまでの交渉相手国であった「呉」から寝返って戦火の中、魏に遣使を送ったのではないか、の説です。

邪馬壹国の卑弥呼は、公孫淵敗戦(八月)の二ヶ月前、(六月)いずれの国よりも先駆けて魏の勝利を見極め、いの一番に魏に遣使を送った。・・・と同時にそのとき、卑弥呼の軍隊の派遣もあったであろうし、その上、地形的な意味から見ても公孫渊と呉との連携を韓半島南岸で遮断、「遠交近攻」の原理で挟み撃ちに合わせて公孫淵を撃った。これら機敏な行動が勝利に導いたとの評価で、魏の明帝の歓待を受けることになった。これも単なる邪推と退けられるかも知れませんが、韓半島南岸が倭地であってこその、戦中遣使であり、倭軍の協力があってこその公孫淵追い詰めの成功・・・、それらの総合結集の結果が勝利だったとも云えるのではないでしょうか。

そして、明帝の忌中明けの正始元年(240年)倭国への下賜品贈呈の旅、すなわち、倭人伝へとつながってゆくわけですが、そのときは未だ呉の孫権は健在。韓半島南岸の陸地も沿岸部も呉の不穏分子が潜んでいる可能性がいっぱい、韓半島の鉄を求めて起こした戦いで魏自身の領土となった陸地を通らずに、そんな危険な道をわざわざ選ぶ必然性が感じられないのですが。
ハナサンピン
2013/04/06 05:49
私も、韓半島の南岸は狗邪韓国(倭国地)であることを踏まえています。(ただし、それが今のプサンあたりかどうかは分かりません。)

九州説も近畿説も、伊都国や奴国までの所在はほぼ一致しているのでしょうし、素人ながらそのようなものだろうと想像しています。
ただ、「ジグザグ行進」はせっかくの良い結論を台無しにしてしまうような気がしてなりません。
最初のコメントもそのことを申し上げていますし、そのような云わば「超推論」をしてしまう原因は疑志倭人伝の数値などを精緻に捉えようとする所にあるのではないかと想像しています。

『地形的な意味から見ても公孫渊と呉との連携を韓半島南岸で遮断、「遠交近攻」の原理で挟み撃ちに合わせて公孫淵を撃った。』とお書きですが、それは史実でしょうかハナサンピンさんの想像でしょうか。

「呉が公孫渊に援軍を送る」という所までは、他でも解説してあり理解できますが・・・。

呉は魏の南にあり、公孫渊は魏の北東部の遼東半島辺りを支配していたのでしょうから、呉が公孫渊に援軍を送るには海路になるんだろうと思います。すると、『公孫渊と呉との連携を韓半島南岸で遮断』は意味をなさないように思えます。

また、『「遠交近攻」の原理で挟み撃ちに合わせて公孫淵を撃った。』ということならば、韓半島南岸は言うまでもなく帯方郡より南は『卑弥呼の軍隊』は往来が出来たということでしょう?。
その際、やはり『卑弥呼の軍隊』も韓半島の内陸部をジグザグ行進したのでしょうか。
憂鬱な日々
2013/04/06 13:46
盛り沢山のコメントありがとうございます。

>ただ、「ジグザグ行進」はせっかくの良い結論を台無しにしてしまうような気がしてなりません。
・・・そのような云わば「超推論」をしてしまう原因は疑志倭人伝の数値などを精緻に捉えようとする所にあるのではないかと想像しています。・・・・・

わたしも、古田氏の著書に出会うまでは憂鬱な日々さんがお考えのように、“帯方郡から海岸線に沿って北から南、その南から東の方向へと狗邪韓国まで航行した記述と捉えていました。

ところが、古田氏の著書に触れたあと、倭人伝をよくよく見ると、表面上サッと読むだけでは分からない隠れた法則の存在に気付かされました。

つまり・・・、
“帯方郡から狗邪韓までの距離が8000里ではなく、7000余里”の数値になっているところにです。
ただ漠然と海岸線航行の距離との差が1000里少ないことに気付かされたのです。

8000里と7000里の差は、距離的には大して違いも無く、そんなもの誤差の範囲であろう、と言われるかも知れませんが、数字で七千と八千が文字となって現れた場合は全く違うものを指していると捉えなければなりません。

つづきもあります。
ハナサンピン
2013/04/08 17:43
前コーナーの続きです。

ここで古田氏は考えたのでしょう。韓国の地形図を。そして“乍”と云う文字には、“・・・しながら”と“タチマち”の意味があることを。
そして“乍(タチマ)ち”の意味が“ジグザグ行進”につながったのではないか、と。

このように理解すれば7000里が伝える意味もハッキリ違うというのが分かります。

私が思っているのは、(7000)と(韓地は「方4000里」からくる、8000)は、全くの別個の表現として、それぞれの表現の裏側には違うそれぞれの意味が込められているのではないか、と。

・・・であるゆえ、
7000里は陸地行進であり、8000里は海岸線航行であったとも言うこともできるでしょう。

あるいは別に・・・、魏使の韓地の旅が韓国地内の地形と鉄の産出する場所、軍事的に重要な領域を探るための陸地行進であった、とともに、平行四辺形で表される韓地の、鈍角の対角線の距離を知るための旅であったかも知れない、と。

これらの秘密の解答を目にした人は、コロンブスの卵ではありませんが、ナーンだ、というこになるでしょうが、始めてこの数値の秘密に出会った人はどのような想いだったのだろうか。

この秘密の暴露は世紀の大発見と称されても良いと思っているのですが、この点に関しては他の学者さんはノーコメント、反論のしようがないのでしょうか。

>『地形的な意味から見ても公孫渊と呉との連携を韓半島南岸で遮断、「遠交近攻」の原理で挟み撃ちに合わせて公孫淵を撃った。』とお書きですが、それは史実でしょうかハナサンピンさんの想像でしょうか。

これについても、次コーナーにて。
ハナサンピン
2013/04/08 18:06
おみごと!、ご推察のとおりです。
但し、想像半分と魏志の記す史実が半分、と思っているのですが。

魏志が示す史実を見てみます。

まず、倭人伝の記事から。
「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣はし、郡に詣り、天子に詣りて朝獻せんことを求む。太守劉夏、吏を遣はし、将(も)つて送りて京都に詣らしむ。」

この年次を信用すれば、公孫渊が敗れる二ヶ月前の出来事です。すなわち、戦中遣使ということになります。
(今現在も、これまでの歴史の中でも殆どの史家、学者達は、この景初二年を景初三年と共同改定して読んでいますが、わたしは景初二年が正しいという立場をとります)

この景初二年六月は、公孫渊が窮地に追い込まれ敗戦に傾く一瞬の時期です。そのときすかさず、倭の女王卑弥呼は帯方郡に遣使を送り、わざわざ魏の天子へ直接の謁見を求めて京都までその使を送らせてもらい、朝貢したという記事です。
私は考えます。なぜ天子に直接謁見してまでの朝貢だったのだろうか。極秘の軍事会談だったのではないかと。
公孫渊を敗戦に持ち込む申し合わせ事項の確認を取り付けに行ったのだ、と。
其の証拠に・・・、
このときの倭国の奉献物は「男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈」のそれ以前とこれ以降の奉献品に比べればごくごく貧弱なものです。
ところが、これへのお返しの下賜品(明帝死去のより下賜行為はマル一年後の正始元年〔240年〕となったが)はというと、なんと「絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹」。

つぎへ・・・、
ハナサンピン
2013/04/09 05:26
これに加え卑弥呼自身にも特に、「紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤」・・・と、倭国の奉献品の数倍、いや数十倍・数百倍もの豪華絢爛の下賜品。
さらに、どこの夷蛮の国に対してもなかった、詔勅が下されることになります。
“其の年十二月、詔勅して女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼」に制称す。.....”、と。

・・・と、これらの記事が倭国参戦の有力な証拠の候補に上げられるのではないか・・と。

また、この緊迫したこの時期の実情を『三国志』(帝紀)から拾い出してみます(古田氏の著書より)。

景初中、大いに師旅を興し、渊を誅す。又、軍を潜めて海に浮かび、楽浪・帯方の郡を収め、而して後、海表謐然、東夷屈服す。・・・<魏志三十、東夷伝序文>

景初中、明帝密かに帯方の太守劉マ、楽浪の太守鮮于嗣を遣はし、海を越えて二郡を定めしむ。・・・<魏志三十、韓伝>

これ等の記述は、公孫渊が遼東に健在であったとき、奇襲作戦で海を越えて朝鮮半島に上陸、楽浪・帯方の二郡の制圧に成功したことを物語る記事です。

この作戦は、公孫渊を東西から封鎖、挟撃する、という深慮遠謀の手段です。

そして、ここに、倭国が参戦編入の巻となります。
南から黄海を上がってくる呉軍を対馬海峡から迎え撃ち、公孫渊を孤立状態にする役割を担った、ということです。もっとも、倭国の海軍が対馬海峡に存在するだけでも、呉と公孫渊の間に楔を打っている状況、と考えられるようですが。

そして・・・、
この倭国の参戦状況の賞賛、倭国の使者への歓待、莫大な下賜品へとつながっていった・・、と思うのも一理、いや二理、百理もありか、と思っているところです。

ハナサンピン
2013/04/09 07:05
前のつづきです・・・。
>その際、やはり『卑弥呼の軍隊』も韓半島の内陸部をジグザグ行進したのでしょうか。

倭人は、鉄を求めるために洛東江の下流域まで行った、という記録があります。
・・・だから、倭人は常に韓半島南岸をアッチへ行ったりコッチへ行ったりと頻繁に動き回っていたようですから、韓半島南岸沿いの陸地も、その海岸そのものも熟知の領域となっていたと考えてもいいと思っています。

そして、前コーナーでも述べましたが・・・、わざわざ魏と公孫渊の切り合う真っ只中にまで踏み込む必要もないでしょう。
ただただ対馬海峡から呉の海軍の上がってくるのを待ち構えていれば、それだけでも魏にとっては十分な戦力になるのですから、直線もジグザグの陸地進行もなかったでしょう。

それに最後に、これらの記事が「景初三年」の遣使となると、どうにもこうにも解き難いヘンテコリンな倭人伝となってしまうということをここに付け加えさせていただきます。
ハナサンピン
2013/04/09 07:36
溢れる知識がこぼれていらっしゃるようで、いろいろと書いていただきましたが、それだけに素人には分かりにくくなってきました。

ことは簡単「ジグザグ行進は可笑しいと思いませんか?。」という質問でしかないのです。

私が当初「山川や森林があるであろう韓半島の内陸をジグザグ行進するよりも、沿岸を進むほうが無理が無い。」という主張をしたところ、「公孫渊側の残党がどこで待ち伏せして隠れているか分からないからそれは無理だ。」ということでした。
一方で『「遠交近攻」の原理で挟み撃ちに合わせて公孫淵を撃った。』、『戦中遣使を送った。』ということなので、それならば、韓半島南岸は言うまでもなく帯方郡より南は『卑弥呼の軍隊・遣使』は往来が出来たということでしょうが、その際は彼等も韓半島の山の中をジグザグ行進したのでしょうかと書いたわけですが・・・。
その後のコメントでは、『挟み撃ちとは、対馬海峡で呉を待ち構えていたということ』だそうですが、戦中遣使は帯方郡まで行ったのですね。

おっしゃりたいことは「公孫渊が窮地に追い込まれ敗戦に傾く頃は韓半島は往来しやすかったけれど、滅ぼされた後はその残党が潜んでいるためにあのようなジグザグルートしかなかった。」ということのようですね。

ところで「呉の海軍」と「倭国の海軍」の話ですが、呉が公孫渊に援軍を送るのに、わざわざ対馬海峡に近づく必要もないと思いますが・・・。

それから、戦中遣使は、遼東半島は通れないでしょうから、「帯方郡まで陸路で、そこから航路で魏に渡る。」あるいは「始めから、対馬などから航路で、帯方郡経由で魏に渡る。」なんでしょうね。

ハナサンピンさんも暇ではないでしょうから、もしご回答いただくにしても、簡潔で結構です。
憂鬱な日々
2013/04/09 19:02
>溢れる知識がこぼれるようで・・・、

いえいえそんなことないでしょう。
知識があまりにもないところを無理して書こうとして、持てる知識精一杯出そうとしたので見做しの論旨に見えたようになったかも知れません。その点は反省しきりです。

しかし、ジグザグ進行不支持はいかがなものか?。

真のジグザグは結果としてそのような表現ならざるを得なかったものだろうと思っているところです。

もう一度ここでわたしの考えを述べさしていただこうかと思います。

帯方郡から拘邪韓国までが、魏志韓伝の“方四千里”から8000里となることが分かります。ところが、魏志倭人伝では、その距離が7000里と記されている。

ここで、私はパタ、っと思いが停止してしまうのです。我々が頭で描く距離よりも1000里も少ないことに。

そこから、この千里の違いが何処から来るのだろうかとだれでもが思案することになると思うのですが。
そして・・・、
その結果が、例のジグザグ進行につながったのだ、と。

この詳しい続きも次コメントコーナーにて。
ハナサンピン
2013/04/10 09:31
>その結果が、例のジグザグ進行につながったのだと。

ここのところをもう少し詳しく考えます。
@、魏使は、帯方郡から拘邪韓国までを七千里と記録していた。
このときの推理としては・・・、(a)魏使は韓国の南に流れる洛東江の下流域の鉄の産地の視察するため。また、(b)公孫渊を討ち取った晴れの姿をこれ見よがしに内陸部の村々をアッチへ行ったりコッチへ行ったりと偵察しながら軍事パレードよろしく見せ回るため。あるいは(C)韓国の地形(平行四辺形の鈍角の距離)を知るためのパレードであったかも知れない。
このように、a、b、c、と、私みたいな素人でも色々と陸地行程であれば、想像することが多々上げることができます。

ところが・・・、
A、倭人伝には、帯方郡から拘邪韓国までを八千里とは記述いていませんが。
しかも、この場合も・・・、
帯方郡から海岸に出た初っ端から西海岸線と南岸を海岸沿いに東へ行ったり南へ行ったりの航行は、魏使の旅の目的がどうにもこうにも見えてきません。おまけに、この海岸線航行は直線航行ではないから、東から南、南から東へと海岸線に沿ってクネクネと蛇のような航行をすることになってしまいますから、その距離は八千里は優に越え、拘邪韓国でその旅(万二千里)をタチマチ終えてしまうことにもなりかねません(この海岸線航行の場合は、イザっというときの旅立ちでもその距離は既知の知識であるゆえ測定する必要は今さらありません)。

よって、
この二つのケースをよくよく見較べれば、陸地航行が理に適った推論であることがお分かりいただけるものと切に切に信じているところですが。

示唆に富んだコメントなので、つぎも・・・。
ハナサンピン
2013/04/10 22:41
>「公孫渊が窮地に追い込まれ敗戦に傾く頃は韓半島は往来しやすかったけれど、滅ぼされた後はその残党が潜んでいるためにあのようなジグザグルートしかなかった。」

公孫渊が窮地に追い込まれ敗戦に傾く頃も、そして、それ以降も危険であることには変わりが無いように思えますが、公孫渊敗戦の後は、韓半島は比較的に往来しやすくなったと見ています。

そして、“公孫渊が窮地に追い込まれ敗戦に傾く頃は韓半島は往来しやすかったけれど”と書かれておられますが、こんなことは無いだろうと思っています。極論を仰っておられるようですが、そんなことはありません。

ここのところも、倭人伝を見ると“そーかなあーというフシ”も見受けられる箇所があります。

倭人伝では、(前々々々々コーナーで紹介しましたが)
戦中遣使の奉献物は「男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈」となっており、この奉献物の少なさは、これ以前も、これ遺構も(“男生口四人、女生口六人”については現代の我々にとっては想像できませんが)類例の無い少なさだそうです。これは、倭国の遣使が大夫難升米を先頭に身軽にしていつでも逃げれる態勢で、ごくごく少数の人員で安全な道を選びながらの旅をしたことになっています(このとき、倭国の軍隊の引率も考えられますし、ともしたら、魏の軍隊の派遣があったのかも知れません)。
これが理由です。

後先逆になってしまいましたが・・・、
>戦中遣使は帯方郡まで行ったのですね。

もちろんです。倭人伝の「景初二年」をよく見れば分かることです。もちろん、「景初二年」を「景初三年」に置き換えなければの話ですが。もっとも、ここのところの記述を「景初三年」で読み解くとヘンテコリンな理解不能に陥ることになりますが。

つぎへ・・・。


ハナサンピン
2013/04/10 23:49
>「呉の海軍」と「倭国の海軍」の話ですが、呉が公孫渊に援軍を送るのに、わざわざ対馬海峡に近づく必要もないと思いますが・・・。

それだけでも、魏の応援になると思いますが・・・。
おそらく、倭が魏に寝返っただけでも、韓半島南岸に跋扈する 倭軍を恐れ警戒して韓国の西海岸にも近づけなかった、まして、対馬海峡おや!・・、ではないかと。

ここも後先になりましたが・・・。
>帯方郡より南は『卑弥呼の軍隊・遣使』は往来が出来たということでしょうが、その際は彼等も韓半島の山の中をジグザグ行進したのでしょうかと書いたわけですが・・・。

そんなことは無いと思います。倭軍が帯方郡に行く場合は、なるべく近道で、安全な道を選ぶに決まっているでしょうに。

魏使のジグザグは、韓地内の、東にあったり、また、その南にある村々を繰り返しながら隈なく偵察し、鉄の産地を視察したり、川は比較的浅いところを選んで、高い山々は極力避け、低い峠を越えながら軍事パレードを兼ねた旅であった。おそらく、古田氏のジグザグをも魏使が思考の中に入れての行動だったのではないか・・・、というように考えています。
ハナサンピン
2013/04/11 00:18
簡潔でと申し上げたのに、ご丁寧に・・・・。

整理をさせていただきます。
「山川や森林があるであろう韓半島の内陸をジグザグ行進するよりも、沿岸を進むほうが無理が無い。」という私の主張に対して、「公孫渊側の残党がどこで待ち伏せして隠れているか分からないからそれは無理だ。」ということでしたので、ハナサンピンさんが紹介してくれた戦中遣使のことを対比して韓半島内の往来について、その難易を伺ってきたところです。

ところが、今回のコメントを拝見したところ、「残党が待ち伏せしている」こと以上に、「鉄の産地の視察、公孫渊を討ち取った晴れの姿を見せ回るため、韓国の地形を知るためなどを目的とした可能性が高い。」という結論のようですね。

最後の一文は、最初にお示しいただいた図よりまだ現実的だと思います。

深夜に及ぶ長文の執筆、お疲れ様でした。

ここから先は独り言なので、コメントは不要です。
機会があったら自分で調べてみたいと思います。

韓半島の様子は魏志韓伝に記されているそうだが、その内容はどの段階で把握されていたのだろう。
魏の使いが探査して分かったのか。

倭人条は魏の使いが、本当に現地に赴いて見聞きしたことによっているのだろうか。
倭人条より前の条は国名から始まっているようなのに、倭人条が「倭人」で始まっているのはなぜかな。
「倭人に聞いた」ことを示唆しているのではないかな。
憂鬱な日々
2013/04/11 21:58
>最後の一文は、最初にお示しいただいた図よりまだ現実的だと思います。

ある程度のご理解大変ありがとうございます。

>深夜に及ぶ長文の執筆、お疲れ様でした。

ありがとうございます。“お疲れ”どころか、大変勉強になりました。

これからも沢山のコメントをどうぞよろしくお願い申し上げます。

>・・機会があったら自分で調べてみたいと思います。

最新情報があったら、ブログにてよろしく記載おねがいいたします。
ハナサンピン
2013/04/12 16:56
ハナサンピンさんの2012/11/26の記事「“秘められた『邪馬台国』(八尋秀喜著)”の嘘−4」にコメントさせていただきました。

http://35546864.at.webry.info/201211/article_3.html#comment

それに対するコメントを頂けるようであれば、そちらの方で拝見します。

あまり夜更かしせずに、堀さんに迷惑をかけない範囲でお書きください(笑)。
憂鬱な日々
2013/04/13 19:01

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遂に倭人伝の道程が解けた!。 ハナサンピン/BIGLOBEウェブリブログ
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