テーマ:卑弥呼

卑弥呼ー40 短里の曲がり物差

 レッドクリュフの次に卑弥呼の まとめ を忘れて   しまいました。  卑弥呼は、やっぱり、博多湾岸に居たのだ、・・・と、  いうことを。     三国志(魏志倭人伝)   ・・・郡より女王国に至る万二千余里。・・・    この一文が最大にして、最小の「帰結」です。  いろいろ書いてきましたけれども、卑弥呼は   帯方…
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卑弥呼ー39 三環鈴

 前ページで付言しておきたいことがあります。   新潟県六日町の飯綱山古墳(5C古墳中期)出土の  三環鈴(青銅器)、について。   昨年の秋、私は、阿部氏と共に(実のところ阿部氏より連  れて行って頂いたのですが)埼玉県さきたま古墳群を見て  きました。見てビックリ仰天!・・・まさに古墳の群立地、そ  の近、遠辺は古墳だら…
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卑弥呼ー37 踊る、卑弥呼の墓

 最近、奈良県(纏向遺跡)で古代の大規模な居住区  のようなものが発掘され始めている、というニュ―スを  テレビで見ました。  卑弥呼が居た都だったのではないか?、という記事が  新聞紙上で 踊って いました。   最近、幾度かこのような記事を新聞紙上で見たような  気がします。そのたびに《卑弥呼の国ではないか?》の  ・…
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卑弥呼ー36 レッドクリュフ

 「赤壁の戦」、現今流行(はやり)の「レッドクリュフ」   中国、後漢末の208年、赤壁で「呉」の孫権と「蜀」の劉備  が「魏」の曹操の大軍を破った戦です。これより天下三分・三  国鼎立の形勢が成立したのです。  この戦の中で「短里」における描写があります。     北軍(魏の曹操)を去る二里余、同時発火す。・・(『江表…
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卑弥呼ー35 周髀算経と遍歴

 里程の歴史の繰り返しについて。    『周髀算経』(天文算術書)、この書の冒頭は周公と   殷高(殷人)との天文に関する対話なんだそうです。  紀元前1122年(前後100年)頃の「星の運行」が語られて  いるという(『周髀算経』能田忠亮)。周の始め頃(BC1060)  既に、天文算術書なるものの実体が存在していた、という…
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卑弥呼ー34突然前ページ(34)が消えた!

 本文再編集していた時に、突然消えてしまいました。   ・・・またやり直しします。・・・  換算基準について。・・・・・・・  東夷伝序文の最後に、    故に其の国を撰次して、其の同異を列し、         以って前史の未だ備えざる所に接せしむ。                   ・・・・・、と。  前史、「史…
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卑弥呼ー33 Aべ氏に応えて

 Aべ氏の質問に応えてみたいとおもいます。   (私の力量ではすこし、荷が重いようですが・・・)  一、歩の長さについて、・・・    古田氏は発見しました、「三国志を貫く短里」を、・・・・    そして三国志の記述は「正確この上ない」ことをも・・・    もうすこし、里程記事について詳しく書いてみます。   「古代は輝…
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卑弥呼ー32 卑弥呼の冢(ちょう)

 卑弥呼の墓   倭人伝に    「卑弥呼以て死し、大いに冢(ちょう)を作る、径百余歩」    従来の邪馬台国論者は卑弥呼の墓の長さは150メー  トルもある巨大な古墳(この説のほかにも、7,80メート  ル説、180メートル説もある)として、今現在でも(当時  としては大きな墓として)周知されているのです。   それ…
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卑弥呼ー31 銅鏡百枚は漢式鏡

 倭人伝に    又特に汝に・・・・・銅鏡百枚・・・・・を賜い、皆装封して  難升米・牛利に付す。     「百枚の銅鏡が下賜されてのであるから、かなり多くの  鏡の出土がなければならない。一枚、二枚の出土では  卑弥呼がもらった鏡とは断定することは、難しいと云っ  てもよいと思います。」  上記の文に続いて次のよ…
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卑弥呼ー30 「三角縁神獣鏡」・・・?

 また、倭人伝に舞い戻ります・・・   中国の天子からの下賜品について  ・・・・・絹・・・・・   倭人伝には、中国の天子から卑弥呼へ下賜された   絹や錦、卑弥呼や壱与から中国の天子へ献上した   錦の記載。錦も絹を素材としています。    つまり、中国と倭国は絹を素材とした織物を、やった   り取ったりと、してい…
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卑弥呼ー29 女王の城

 魏使の見たもの   「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して   守衛す。」    そして、魏使は壮大な城郭へと、楼観を見上げながら   柵門(城柵)をくぐり抜け、宮室へと導かれ、女王と面接し、   詔書・印綬・下賜品を与えたのである。    魏使は実際に卑弥呼の城を見、国を見、女王にもあった   ので…
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卑弥呼ー28 玄関口

 魏の遣使は大量の下賜品を持って、参勤交代ならず、  行列をなして卑弥呼の所まできました。   そうです、卑弥呼が都していたところの玄関口、不弥  国へ到着したのです。   そこは博多湾岸、港湾都市 不弥国 だったのです。     魏の遣使は現在のソウルから、釜山、対馬、壱岐の島、  唐津、糸島半島を横切り、ついに博多湾岸…
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卑弥呼ー27 卑弥呼の都

 道草ばかりして、すみません、・・私は、いつでも、  いや、子供のころから道草が、だい好きでした。  しかし、今はそうノンビリもしていられません。   さて、     ここから、卑弥呼の都していたところの探求に、   入って行こうとおもいます。  倭人伝の行路記事を見てみましょう。   (古田氏による、読み下し文です)…
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卑弥呼ー26 景初三年鏡

 前ページで   【「景初二年」も、やはり原文がただしかったのです。】 『 景初二年(魏と呉の戦争の最中)卑弥呼の貢献使は   戦火をくぐって、洛陽に行った!!!。』  本当に卑弥呼の遣使は明帝の居した都に、お出迎えの  吏とともに朝貢したのです。  しかしここで、  景初三年鏡(といわれている)有名な、大阪府…
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卑弥呼ー25 パンドラの箱

 前ページでは、景初三年は誤りであるということ   がはっきりしました。  景初三年正月、明帝の急死に遭遇した卑弥呼の  使難升米たちは,驚いて空手で、本国へ帰還したと  おもわれます。   その後一年間は魏朝の服喪。諸公事、諸儀典の  中断となり、その年(景初三年)の十二月になって、  (斎王)の諸公事再開、年号改定…
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卑弥呼ー24 女王国

 前5,6ページでは少し道草をしすぎたようです。   時代も先へと進みすぎたようです。    さてここからは、女王国(卑弥呼)が都していた所  の探求に入ろうと思っています。お付き合いのほど  よろしくおねがいいたします。 ちょっとその前に(17ページ)で、范曄は「会稽東治」を  「会稽東冶」と改定したことの「非」を述…
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卑弥呼ー23 道草 六

 前ページ,前々ページで   絶唱雷山(古田氏は「雷山の絶唱」と、題していた。)の  二つの歌を紹介さしてもらいました。   古田氏によって、甦った二つの歌、再びこの世に光輝く   ・・・いのち・・・の胎動をし始めた,この二つの歌。  古田氏によれば、・・この歌のすばらしさを認めていたのは   紀貫之と、時の天皇(醍醐・青年…
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卑弥呼ー22 道草 五

 「四」の続きです。   現代人にとっては、「台風や津波」の予兆としか    聞こえず、そのとどろきは、単なる物理   現象なのです。しかし、古代人たる人麻呂に   とっては、そうではなかった。    それは、他でもない死者の声。死者がが生ある   われわれに告げる声、その予告なのである、、と。    そのような暦代(皇、…
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卑弥呼ー21 道草 四

私の目の鱗(うろこ)がさらりと、とれた  人麻呂の秀歌、雷山の絶唱、の中の   “海鳴りの歌”です。  ≪大君は 神にし座せば 真木の立つ      荒山中に 海を成すかも≫    原文   皇者 神二之座者 真木之立 荒山中二                海成可聞     【上の原文の 二 という数字は、山冠…
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卑弥呼ー20 道草 三

 ⑧ さらに、進一歩しよう。    二ニギノミコトたちは、九州王朝の始祖    や歴代だ。その歴代の“善き導き”のもと、    民の「いほり」は安定し、生活を楽しんで    きた。それなのに今は、うって変わった。 だれの目にも明らかなように、倭国「俀国」のリーダー、   九州王朝の君主達は、大国(唐朝)との…
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卑弥呼ー19 道草 二

 ④ この筑紫の雷山を以って、人麻呂の歌の    真の「作歌場所」としてみた場合この歌は    どのような意味となるのか。 ≪その一≫「すめろぎは神にしませば」    この雷山の上宮の際神である神々、すなわち    二ニギノミコトや「天神七社」「地神五社」の神々    は、(かっては生ある王者であったが)今や死者  …
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卑弥呼ー18 道草

 前ページでは古田氏によって陳寿の歴史観の   深奥なる真髄を目の当たりに見させて  いただきました。 未熟な私ででしたが、「会稽東治」の一文に、長い 壮大な歴史を有する古代中国そのものが、ずっしり と込められていようとは。・・・・   古田氏のこのメッセージにより、  感嘆、感激の、無類の一瞬を頂いたような気分  でし…
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卑弥呼-17 東治と東冶

前ページの続きです、  夏の政治上の統治・感化が直接倭人におよんでいた. 中国の歴代の王朝は、東夷(特に倭国)が、礼節を守る、 二心ない忠誠心ある国として、厚遇し、特別な関係 のなか文化史的交渉相手国として扱ってきた。、、、、  ・・・・・・これが陳寿の歴史観だったのである。  さらに古田氏は「(邪馬台国)はなかった」…
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卑弥呼ー16 邪馬壹国

 「三国志」の中には「邪馬臺国」はなかったのです。 もちろん日本の歴史学上江戸時代中期より現在に 至るまで大手を振って闊歩して定説道を歩んできた  「耶馬堆」・「邪馬台国」の道もようやくここで途絶 しなければならない時がきたのです。  「邪馬壹国」のお話を語れるときがきたのです。 ちょっとその前に,「范曄」は 「壹」…
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卑弥呼ー15 范曄(はんよう)と裴松之(はいしょうし) 

 著述対象は「後漢書」のほうが先だが、 執筆時期は陳寿「三国志」よりおそいのである。  かって、「史記」・「漢書」と現れたのち、陳寿は (同時代史)としての「三国志」を書いた。  自分の少・青年時代に見聞きしてきた世の動きを 陳寿は筆にしたのである。晋は魏のあとつぎとして、 平和裏に禅譲され、史料の紛失も無く豊富な史料 の…
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卑弥呼ー14後漢書(范曄ハンヨウ)「邪馬臺国」

三国志の中では女王国は「邪馬壹国」と 書かれており、決して「邪馬臺国」とは書 かれてはいなかった。ということが古田氏 によって、確かに証明されました。  更に古田氏はいっています。   ですが、歴史上「邪馬臺国」と書いた人   がいた、というのです。   その人は「後漢書」の(范曄)なんだそうです。    《国皆王を称し…
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卑弥呼ー13 「壹」と「臺」

 古田氏は   「壹」と「臺」の探求から、始めたようです。    【「壹」は「臺」のあやまり】とか、【「壹」は「臺」の誤】    と、いとも簡単に論証もなしに「あやまり」という言葉    で、かたずけられているから。  氏は、「壹」と「臺」の完全調査、紹煕本「三国志」全体の    中から二つの文字を全部抜き出す作業をしたそう…
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卑弥呼ー12 シュリーマン

 「ヤマト」と訓みたいから、「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と  書き換える、原文(三国志、古写本)にある「壹」を現代  の我々が勝手に書き換えて「臺」、こんな事がまかり通  っていいのでしょうか?  こんな勝手が許されるから、日本列島沖縄から青森まで  「邪馬台国」があるという事になるんじゃあないでしょうか?   百花繚乱、お遊…
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卑弥呼ー11 ヤマト?

 更に古田氏は、、、   いわゆる、近畿説と九州説の対立は根本において  近畿「大和 やまと」と筑後「山門 やまと」との争い  である。どちらも「”ヤマト”はここだ!!」と主張して  いるにのである。だから、どちらから(九州説から見  ても近畿説から)見ても「邪馬壹国」では不都合だ、   それで「邪馬臺国」、と原文を直さなけ…
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卑弥呼ー10 邪馬台国はなかった(壹→臺)

 ・・・・・南、邪馬壹国に至る。女王の都するところ・・・・・  魏志倭人伝中、この国名(邪馬壹国)が書かれているのは この文面一箇所だけである。そこには「邪馬壹国」とかいてある。  それなのになぜ、一般に「邪馬臺国」として通用させてしまった のだろう。  わたしは邪馬台国論争の本を読み、その理由を百方に求めた。 だれも書いて…
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