テーマ:新 卑弥呼再考

新 卑弥呼再考⑰-明治以降の後漢書主義(古田氏命名)の流れ

江戸時代に確立された『後漢書』による改定の「邪馬臺国」論が、明治になっても、そ の勢いは止まりません。現代の、全国で猛威を振るっているインフルエンザが如きにで す・・・。 その切っ掛けは、明治43年(1909年)、邪馬台国論争のはじまりにあります。 “白鳥庫吉が「倭女王卑弥呼考」で九州説を引っ提げ、それに対して内藤湖南は「卑…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑯-後漢書の流れ

前ページまで、陳寿と范曄を対比させ、両者の歴史書を著すときの姿勢、 精神、思推等の違いについて書いてきました。そのことによって、范曄は、 故意にといったらオーバーな表現になるかもしれませんが、誤記と誤読の 世界で、『後漢書』を著していた。 結果、范曄は、『三国志』を下敷きにしながらも、その内実の細密な吟味も なく、誤読の中…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑮-陳寿と范曄

范曄が著した『後漢書』の中に、陳寿の著した『三国志』を誤読し、記述している箇所が まだまだあります。 『三国志』 (四) 男子は大小となく、皆鯨面文身す。・・・・・・・・・・・諸国の文身各々異なり、或は     左にし或は右にし、或は大に或は小に、尊卑差あり。 『後漢書』 (四)″男子皆鯨面文身、其の文の左右大小を以…
トラックバック:1
コメント:0

続きを読むread more

憂鬱な日々さんに応えて-2

前ページで示しておいた次の(三)、(三)″について検証して見ます。 【《三国志》  (三)有無する所、儋耳(たんじ)朱崖(しゅがい)と同じ。  《後漢書》  (三)″朱崖・儋耳と相近し。故にその法俗多く同じ。】 これも、微妙なところですが、重大な意味を含んだところがありますので、古田氏の検 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

憂鬱な日々さんに応えて

憂鬱な日々さんへの応答のコメントは、少々細かいところを紹介しなければならないの で、ブログ面でのお応えになりますが、よろしくご拝読のことお願いいたします。 まず、『三国志』と『後漢書』の、記述の違いを二・三示しておきます。                              (古田氏著「邪馬台国はなかった」より) 《三…
トラックバック:0
コメント:9

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑭-(東治→東冶)改定の非-陳寿と范曄

さて、「東治」から「東冶」への変更は、後代まで決定的な影響を与え続けた 改定であった・・・。の、問題に入ります。 これも、倭国の位置を示すにかなり重要なポイントのところなのですが・・・、 『魏志(倭人伝)』の原文は、【計其道理、當在会稽東治之東】、となっていま す。 その中の ““・・・當在会稽東治之東(まさに会稽東治の東…
トラックバック:0
コメント:8

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑬-景初二年→景初三年 改定の疑問-5

前ページのつづきをもう少し・・・、 前ページの結果、これまで発掘されてきた景初三年鏡らしき鏡と同じ銘文をもった鏡が 日本のどこかで大量の出土がなければ、魏から下賜された鏡としてなんの証明力も持 たないということがハッキリ示されました。 【その理由は・・・、「皆装封して難升米・牛利に付し、・・・」の文章の中にあります。すな…
トラックバック:1
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑫ー景初二年→景初三年 改定の疑問-4

さて、いよいよ古田氏の検証を追ってみることにします。 (まず、古田氏は「(景初二年)→(景初三年)」の改定の、次に示す五つの疑いをあげ ています。) (一)、景初二年の項に、「太守劉夏、将って送りて京都に詣らしむ」とある。        卑弥呼の使が帯方郡にいたったところ、帯方郡の劉夏は、官吏を派遣して、この    …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑩ー景初二年→景初三年 改定の疑問ー2

新井白石は・・・、 ◎““遼東の公孫淵の滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使  人帯方に至るべきにもあらず。””  “其道未だ開けざらむに”、と書かれていますが・・・、戦中だから危険という理由だけ  で、どうして「未だ開けざらむ」と、言い切れるのでしょうか?。もしかして、倭人伝記述  の通りに、戦況如何…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑨-景初二年→景初三年 改定の疑問-1

前ページまで、中国において、『三国志』における「壹」→「臺」への改定問題は、「宋の 范曄」から始まって、「元の郝経」、「清の盧弼」、と、連綿と受け継がれ現代にいたって いる。・・・と書きました。 この中国の、「壹」→「臺」への改定の非が、不幸にも日本の『三国志』考証学の中に取 り込まれ、““やれ近畿のヤマトであ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑧-壹と臺⑥(古田氏と中国の大家との対決)

「壹と臺」についての補足をもう少し・・・。 古田氏は、前ページの続きに次のようなことを述べています。 ““以上のような検証の途中で、わたしを思わずハッとさせた箇所があった。 (ハナサンピンは、この箇所が後代に影響を及ぼしかねない、重要なポイントと思ってい ます) 「ここの壹は臺のあやまり」として、永らく中国古典研究史上…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑦-「壹」と「臺」の探求ー5

かくして、古田氏は『三国志』全体の厖大な史料の中の「壹」と「臺」をピックアップしての 完全調査に入ったのです。 ・・・・・「壹」と「臺」の完全調査・・・・・、 ““わたしは紹煕本『三国志』に対して、予定の作業を開始した。 それは、『三国志』全体の 「壹」 と 「臺」 を全部抜き出す、という単純な作業だった。 紹煕本『三国志…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑥ー「壹」と「臺」の探求ー4

石川、福井の旅で中断した(「壹」と「臺」の探求)の本題に入ります。 【新 卑弥呼再考⑤ー「壹」と「臺」の探求ー3】で述べた際、偶然、同じページの““「臺」 の誤”” の左に三行目の ““自女三(「王」の誤)國以北”” 、なる文に出会ってしまい ました。 こんなところにあったんだ!、と思って、その部分の文章をよく見ると・・・、…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考⑤ー「壹」と「臺」の探求ー3

先日(2010・11・2)は、書店で、先述の石原道博編訳著の本を買ってきました。 例の箇所、「邪馬臺の誤」なる文を確かめてみようと買ってきたのです。この本には、紹 興本と思われる原文が掲載されていました。その「壹」の文字が載っているページの部 分を下に示しておきます。 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考④-「壹」と「臺」の探求ー2

前ページのつづきです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・、 けれども、わたしは京大の中国語学の尾崎雄二郎さんの研究室を訪れたとき、はじめ てしっかりした版本を手にすることが出来た。尾崎さんは、自分も今、中国語学の立場 から倭人伝に興味をもっている、といわれ、百納本廿四史所収の『三国志』を貸してくだ さった。これには、「紹煕(し…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考③ー「壹」と「臺」の探求-1

本題に入る前に、これまで見過ごしてきたところなんですが、重大な 事に気付いたことを、ひとつ。それは・・・、 前ページの、下に示す古田氏の文章の中にあります。 “““わたしは邪馬台国論争の本を読み、その理由を百方求めた。    だれも書いてない。もし触れてあっても「壹は臺のあやまり」    とあるだけだ。こころみに岩波文庫本の『…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考②ー古田氏と陳寿ー2

前ページは、シュリーマンが幼少期の心をそのまま持ち続けてダーダネルス海峡のほ とり、トロヤの廃墟に到達した。そして古田氏もシュリーマンに感化されたように、「邪 馬壹国」という見慣れない名の国を発見した。両者、子供のころの純真な心で、緻密 にして丹念な努力で偉大な発見を成した。・・・、と、(わたしは、そのように思っている のですが…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新 卑弥呼再考①ー古田氏と陳寿

前ページの続きで、三角縁神獣鏡以前の国は、出雲から近畿領域につながる王国 (出雲王国)・・・、であった、ことを論証するところだったのですが・・・、このところの私 のブログは、神話・説話・伝承に頼りすぎていた面があったかな・・・、ということを感じ、 これ反省!・・・と、これは、チョット、先を、急ぎ過ぎていたようでした(今日明日にも死…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more