さて、いよいよ「キ(夔)鳳鏡」が、須玖岡本遺跡からの出土品であったか
どうかの際どい論議に関して、コテコテの邪馬台国論者を相手に、古田
氏の面目躍如の斬り込み隊長よろしく、次から次へと論破してゆく様をじ
っくりとご覧に入れたいと思っています。
なぜ「キ(夔)鳳鏡」が、須玖岡本からの出土であるか無い…
前ページまでの、北九州を代表する「井原(いわら)」・「三雲南小路
(みくもみなみしょうじ)」・「平原(ひらばる)」・「須玖岡本(すくおかも
と)」・「立岩(たていわ)」の各遺跡が弥生時代後期後半、及び弥生
時代終末期までに営まれた墓地群であったということを、もう一歩押
し進め、確証に近いところまで導いてくれるであろう一枚の銅鏡の…
下の図は、北九州における代表的な五個の遺跡と銅鏡との対照表で
す。この図の全体を眺めてみると・・・、ある疑問点が浮かんできます。
(キ鳳鏡は夔鳳鏡と書きます。?マークは混入物ではないかとの議論
のあるところ、という意味。三雲南小路の○印は、手元の史料では数
を確認できないが、該当するカガミが出土しているという意味で…
前ページでは、結局のところ、甕棺そのものによる編年、あるいは
その甕棺を内包した遺跡自体の編年方法は、当時としてはこれと
いった決め手のある有力な説も無く、簡単に編年の決定をゆだね
ることのできる理論も無かった。
したがって、甕棺の中に副葬されていた銅鏡の銘文の有りや無し、
文様の様式、鋳上がりの良し悪し、等々をもって舶載鏡と…
今回の九州・山口への訪問の主目的は、甕棺墓の年代設定がどの
ようにして決められていたのだろうか、を確かめるための旅でした。
飯塚市の「立岩遺跡」、福岡市博多区「金隈遺跡」、春日市の「須玖
岡本遺跡」、福岡市西区の早良平野上の「吉武高木遺跡」、前原市
の「三雲南小路遺跡」、そして佐賀県に入って「吉野ヶ里遺跡」、唐
津市の「菜…
一足先に、最後の日程から・・・・・、
明日(7月31日)は日曜日、市役所は休みで資料集めが儘ならないようだ。
・・・、いや!ところが、違ったようです。「土井が浜遺跡人類学ミュージアムの
案内を拝見すると、休館日は月曜日とのこと、助かった。他の歴史資料館とは
大違いで助かりました。
・・・で、そのミュウジアム見学のた…
ハナサンピンは卑弥呼に逢ってきました。
倭国は巨大な防衛国家であったことを知った旅だったからです。
一番外(そと)に対しての防衛体制は北九州一円を取り巻く「神
籠石(こうごいし)」群があります。
そして、その内まきに、「水城」が主として博多湾岸に対しての防
禦体勢を布くように平地に張り巡らされています。
そして、大宰府の…
東北関東大地震について、語らなければならない時がきました。
今までは何が何だか分からない、語れば・・・、忽ち非難ごうごうの
渦に巻き込まれそうな・・・、神をも恐れぬ発言をしそうな感じで、う
まく語る知恵さえ湧かなかった。
沈思黙考している自分のバカさ加減にも幻滅した。・・・、というのは
昨日(2011・5・28)のテレ…
前ページでは、神武は倭人として無事速吸の門(鳴門海峡)通り抜け
た、ところまで書きました。
さて、ここから戦闘に入るわけですが、その前に次の一文を見ること
にします。
“故(かれ)、その国より上り行く時、波速之渡を経て、青雲の白肩津
(しらかたのつ)に泊(とま)る。此の時、登美の那賀須泥毘古、軍を
興して待ち向へ…
ヤマト王権の前には銅鐸を祭祀とする王国があった。
それは、出雲から、(現代の地図から見ると)鳥取、京都を南東に広
がる近畿までの広い領域を有する、東〔魚是〕人の国家であったの
ではないか・・・と、前ページまで説いてきた。
そして、その広大な領域をもった東〔魚是〕人は、ある時点,、歴史上
プッツリと消えてしまう時が来る。そし…
「是」の意味の解読から、日本列島内に、倭人と東〔魚是〕人の民族国
の存在を明らかにすることができるようになった。
そして、その東〔魚是〕人の国は倭国の東隣に近接していたのではない
か、・・・、というところまで理解できるようにもなった。
この理解が正しかったと思える決め手らしきヒントが、東〔魚是〕人の中
の〔魚是〕の文字の中…
《タイトルの〔魚是〕(テイ)の表し方は・・、魚偏(サカナへん)と、「是」の
旁(つくり)で成り立った一文字を意味しています。そして、その訓読が
(テイ)である、ということです》。
東〔魚是〕(テイ)人〔東鯷人〕の話をする前に、「倭人」についての話か
ら入って行かなければなりません。
・・・、というのは、東〔魚…
前ページで説明を加えておかなければならないところがありました。
それは、
倭人伝行路記事の中で、
始度一海千餘里至對海国・・・・・ 方可四百餘里 ・・・・・・・・・、と、
又南渡一海千餘里・・・(名曰瀚海)・・・至一大國・・・方可三百里・・・
・・・、の「方可四百餘里」と「 方可三百里」の、それぞれ「對海国」と
…
まず、原文を示しておきます。
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里至對海國 其大官曰卑狗福曰卑奴母離所居絶 方
可四百餘里 土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物
自活乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴母
離 方可三百里 多竹木叢林有三…
前ページで、「臺」という文字は、どういうところで、どのような意味を有して、
使われていたかが、大体お分かりいただけたかと思います。
さて、今ページは、「邪馬壹国」の「壹」について、述べてみようと思います。
まず、「壹」という文字についてですが・・・、これまでは、ただの「一・ひとつ」
の数を漢字で表記するときの文字として認…
「新 卑弥呼再考⑰」の最後で、その次のページで東鯷国について書くことを
予告しておきながら、「回り道」に気をとられて、忘れたようになっていた。
さすがに、今ページでは!、と思ってパソコンに向かいましたが・・・、またフッ、
と「壹」と「臺」の関係の重要なポイントの見過ごしが気になり、またさらに、予
定の変更と相成りま…
コメントコーナーでは、スペースが足りないので、本ページにてのお答えにな
りますが・・・、失礼をお許し願います。
う―――ん、!・・・、これだから、頭の良い人は困るのです。
イキナリ、三平方の定理を持ち出して・・・、距離をはかる・・・!、私には到底
考えの及ばない発想力・・・ですね。
しかし、ここで諦めてはいけない、私も…
もうひとつ、范曄の失錯とも言える「会稽東冶」の語意を、「会
稽東治」との比較の上で考えてみようと思います。
まず、「会稽東治」の意味から入ってゆきます。
「会稽東治」が、どういう場面に登場するのか、原文を見ること
にします。
《男子無大小皆黥面文身、自古以来其使詣中国皆自称大夫、
夏后少康之子封於会稽、断髪文身…
今ページも「東鯷国」について書こうと思ったのですが・・・、
少し寄り道をしようと思いまして・・・・・・、ほんの少しのお付き合いを・・・。
ある人の言うに、「後漢書」に載る、「其地、大較在会稽東冶之東」の句の方が大体(お
よそ)の方向を指し示すことで充分として、陳寿の著す・・・「計其道理、当在会稽東治
…
前ページのつづきです。
缶ビール(350cc)二本を飲むことはしなかったが、その内の一本は、感慨
深く飲ませてもらいました。
もともとが、日本の古代史に流れる“近畿王朝一元史観”の素地があった。
南北朝から江戸時代、明治・大正を通して現代の戦前・戦中・戦後の古代の
歴史学の流れの中には、誰にも逃れえぬ底知れぬ一本の “ヤマ…