2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅥー(キ鳳鏡ー2)

さて、いよいよ「キ(夔)鳳鏡」が、須玖岡本遺跡からの出土品であったか どうかの際どい論議に関して、コテコテの邪馬台国論者を相手に、古田 氏の面目躍如の斬り込み隊長よろしく、次から次へと論破してゆく様をじ っくりとご覧に入れたいと思っています。 なぜ「キ(夔)鳳鏡」が、須玖岡本からの出土であるか無い…
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2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅤー(キ鳳鏡-1)

前ページまでの、北九州を代表する「井原(いわら)」・「三雲南小路 (みくもみなみしょうじ)」・「平原(ひらばる)」・「須玖岡本(すくおかも と)」・「立岩(たていわ)」の各遺跡が弥生時代後期後半、及び弥生 時代終末期までに営まれた墓地群であったということを、もう一歩押 し進め、確証に近いところまで導いてくれるであろう一枚の銅鏡の…
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2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅣ

下の図は、北九州における代表的な五個の遺跡と銅鏡との対照表で す。この図の全体を眺めてみると・・・、ある疑問点が浮かんできます。 (キ鳳鏡は夔鳳鏡と書きます。?マークは混入物ではないかとの議論 のあるところ、という意味。三雲南小路の○印は、手元の史料では数 を確認できないが、該当するカガミが出土しているという意味で…
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2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅢ

前ページでは、結局のところ、甕棺そのものによる編年、あるいは その甕棺を内包した遺跡自体の編年方法は、当時としてはこれと いった決め手のある有力な説も無く、簡単に編年の決定をゆだね ることのできる理論も無かった。 したがって、甕棺の中に副葬されていた銅鏡の銘文の有りや無し、 文様の様式、鋳上がりの良し悪し、等々をもって舶載鏡と…
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2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅡ

今回の九州・山口への訪問の主目的は、甕棺墓の年代設定がどの ようにして決められていたのだろうか、を確かめるための旅でした。 飯塚市の「立岩遺跡」、福岡市博多区「金隈遺跡」、春日市の「須玖 岡本遺跡」、福岡市西区の早良平野上の「吉武高木遺跡」、前原市 の「三雲南小路遺跡」、そして佐賀県に入って「吉野ヶ里遺跡」、唐 津市の「菜…
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H 23・7・30 土井ヶ浜遺跡廻り前夜と当日(31) 

一足先に、最後の日程から・・・・・、 明日(7月31日)は日曜日、市役所は休みで資料集めが儘ならないようだ。 ・・・、いや!ところが、違ったようです。「土井が浜遺跡人類学ミュージアムの 案内を拝見すると、休館日は月曜日とのこと、助かった。他の歴史資料館とは 大違いで助かりました。 ・・・で、そのミュウジアム見学のた…
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2011・7・25~7・31北九州・山口の旅

ハナサンピンは卑弥呼に逢ってきました。 倭国は巨大な防衛国家であったことを知った旅だったからです。 一番外(そと)に対しての防衛体制は北九州一円を取り巻く「神 籠石(こうごいし)」群があります。 そして、その内まきに、「水城」が主として博多湾岸に対しての防 禦体勢を布くように平地に張り巡らされています。 そして、大宰府の…
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沈思黙考破ることができるか?

東北関東大地震について、語らなければならない時がきました。 今までは何が何だか分からない、語れば・・・、忽ち非難ごうごうの 渦に巻き込まれそうな・・・、神をも恐れぬ発言をしそうな感じで、う まく語る知恵さえ湧かなかった。 沈思黙考している自分のバカさ加減にも幻滅した。・・・、というのは 昨日(2011・5・28)のテレ…
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東〔魚是〕人④-神武と那賀須泥毘古(ながすねひこ)

前ページでは、神武は倭人として無事速吸の門(鳴門海峡)通り抜け た、ところまで書きました。 さて、ここから戦闘に入るわけですが、その前に次の一文を見ること にします。 “故(かれ)、その国より上り行く時、波速之渡を経て、青雲の白肩津  (しらかたのつ)に泊(とま)る。此の時、登美の那賀須泥毘古、軍を  興して待ち向へ…
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東〔魚是〕人③-銅鐸王国は神武一派に破壊された

ヤマト王権の前には銅鐸を祭祀とする王国があった。 それは、出雲から、(現代の地図から見ると)鳥取、京都を南東に広 がる近畿までの広い領域を有する、東〔魚是〕人の国家であったの ではないか・・・と、前ページまで説いてきた。 そして、その広大な領域をもった東〔魚是〕人は、ある時点,、歴史上 プッツリと消えてしまう時が来る。そし…
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東〔魚是〕人②ー鯷〔魚是〕(テイ)と銅鐸

「是」の意味の解読から、日本列島内に、倭人と東〔魚是〕人の民族国 の存在を明らかにすることができるようになった。 そして、その東〔魚是〕人の国は倭国の東隣に近接していたのではない か、・・・、というところまで理解できるようにもなった。 この理解が正しかったと思える決め手らしきヒントが、東〔魚是〕人の中 の〔魚是〕の文字の中…
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東〔魚是〕(テイ)人①ー倭国と東〔魚是〕国

《タイトルの〔魚是〕(テイ)の表し方は・・、魚偏(サカナへん)と、「是」の 旁(つくり)で成り立った一文字を意味しています。そして、その訓読が (テイ)である、ということです》。 東〔魚是〕(テイ)人〔東鯷人〕の話をする前に、「倭人」についての話か ら入って行かなければなりません。 ・・・、というのは、東〔魚…
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再吟味④-倭人伝の行路記事についてーⅡ

前ページで説明を加えておかなければならないところがありました。 それは、 倭人伝行路記事の中で、 始度一海千餘里至對海国・・・・・ 方可四百餘里 ・・・・・・・・・、と、 又南渡一海千餘里・・・(名曰瀚海)・・・至一大國・・・方可三百里・・・ ・・・、の「方可四百餘里」と「 方可三百里」の、それぞれ「對海国」と …
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再吟味③-倭人伝の行路記事についてーⅠ

まず、原文を示しておきます。 從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里 始度一海千餘里至對海國 其大官曰卑狗福曰卑奴母離所居絶 方 可四百餘里 土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物 自活乗船南北市糴 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴母 離 方可三百里 多竹木叢林有三…
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再吟味②-「邪馬壹国」の「壹」について

前ページで、「臺」という文字は、どういうところで、どのような意味を有して、 使われていたかが、大体お分かりいただけたかと思います。 さて、今ページは、「邪馬壹国」の「壹」について、述べてみようと思います。 まず、「壹」という文字についてですが・・・、これまでは、ただの「一・ひとつ」 の数を漢字で表記するときの文字として認…
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再吟味①-「邪馬壹国」と「邪馬臺国」 

「新 卑弥呼再考⑰」の最後で、その次のページで東鯷国について書くことを 予告しておきながら、「回り道」に気をとられて、忘れたようになっていた。 さすがに、今ページでは!、と思ってパソコンに向かいましたが・・・、またフッ、 と「壹」と「臺」の関係の重要なポイントの見過ごしが気になり、またさらに、予 定の変更と相成りま…
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憂鬱な日々さんのコメントに応えて

コメントコーナーでは、スペースが足りないので、本ページにてのお答えにな りますが・・・、失礼をお許し願います。 う―――ん、!・・・、これだから、頭の良い人は困るのです。 イキナリ、三平方の定理を持ち出して・・・、距離をはかる・・・!、私には到底 考えの及ばない発想力・・・ですね。 しかし、ここで諦めてはいけない、私も…
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回り道②ー会稽東治と会稽東冶

もうひとつ、范曄の失錯とも言える「会稽東冶」の語意を、「会 稽東治」との比較の上で考えてみようと思います。 まず、「会稽東治」の意味から入ってゆきます。 「会稽東治」が、どういう場面に登場するのか、原文を見ること にします。 《男子無大小皆黥面文身、自古以来其使詣中国皆自称大夫、  夏后少康之子封於会稽、断髪文身…
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周り道ー「計其道理、当在会稽東治之東」について

今ページも「東鯷国」について書こうと思ったのですが・・・、       少し寄り道をしようと思いまして・・・・・・、ほんの少しのお付き合いを・・・。 ある人の言うに、「後漢書」に載る、「其地、大較在会稽東冶之東」の句の方が大体(お よそ)の方向を指し示すことで充分として、陳寿の著す・・・「計其道理、当在会稽東治 …
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閑話休題ー宝莱山古墳(その2)ー邪馬台国思想の終焉

前ページのつづきです。 缶ビール(350cc)二本を飲むことはしなかったが、その内の一本は、感慨 深く飲ませてもらいました。 もともとが、日本の古代史に流れる“近畿王朝一元史観”の素地があった。 南北朝から江戸時代、明治・大正を通して現代の戦前・戦中・戦後の古代の 歴史学の流れの中には、誰にも逃れえぬ底知れぬ一本の “ヤマ…
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