前ページまでの論証を終えるとき、前ページ最終グーグルアー
スに図を書き込んでいたとき、ハッ、と何か不思議な感覚に捉わ
れ、考えられないような図絵が思い浮かばれました。
“倭人伝の最終行路記事が完成していたではないか。”
われわれは・・・、
“倭人伝が辿った確かな道程を見付けることに成功した!”・・・
のではないか、…
今テーマ本当に本当の最終章のページです。
『水城』と『邪馬壹国』の関係についてです。
前ページで紹介したように、例のあの膨大な水城は、“少なくと
も三期にわたって築かれていたことが分かっています。
それは・・・、(内倉武久氏のサイトそのままの掲載です)
“水城の堤の下には地盤固め用の木の枝の「敷粗朶(しきそだ)」
…
2013年2月20日夜9時、NHKのゴールデンタイムのニュースでビッ
グニュースとして、陵墓参考地とされている「箸墓古墳に初めて人が
入る」として大々的に報道された。
そこで、翌朝、我が家の朝日新聞を見開くと、やはり、(昨晩のNHKの
ような訳にはいかなかったが)十五面の中段辺りだったか・・、その記
事が小さく載っていまし…
今テーマ最終章になるかも知れないページです。
今ページでは、大宰府と邪馬壹国、水城と邪馬壹国の関係について
論証することにします。
『大宰府と邪馬壹国の関係について』
九州歴史資料館 開館記念 特別展として、「大宰府」その栄華と軌跡
と題した本が平成二十二年十一月二十一日に発刊されました。
編集・発行は九州歴史資料館…
2013年一月十九日に新潟県、県立歴史博物館に行ってきました。
「古代の越後国古志郡」―八幡林遺跡出土木簡とその時代―・・・と
題した、平成24年度冬季企画展を見に。
本当の私の目的は、特別企画展として、静岡県の「伊場遺跡」から
出土の、「評」という文字が墨書された木管を実際この目で見たいが
ためのものでした。その木簡が、…
今ページからの内容は、前ページと多少掛け離れる内容となります
が、氏の思いっきり自由な発想で導かれた微かな希望・・・ “邪馬
壹国が吉野ヶ里の地であったのではないかの可能性”・・・の(私も
その可能性を頭から消し去ることができないので)その予見らしきも
のを示唆してくれたことにあやかって、前ページからのカテゴリで、
酷評の…
まず、私の“末羅国から女王国までの行程”の論証を示しておきます。
末羅国へ降り立って、末羅国から"東南陸行伊都國に至る500里"と
なっています。
「東南陸行」は、出発し始めの歩き出しの方向を指し示したものです。
歩き始めれば、あとは、魏使が伊都国に確実に到着できるよう倭国
側の出迎えの使者が待っていたであろうことは容…
狗邪韓國から末羅国までの南へと下る行程記事の訳です。
もう一度、狗邪韓國から末羅国までの航路をグーグルアースで下に
示しておきます。
對海國と一大國通るところの原文を八尋秀喜氏はつぎのように解説
しています。
①“始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑…
前ページの補足です。
前ページで、韓地がグーグルアースの平行四辺形で表せることとそ
の四辺形の鈍角の対角を一本線で引いてできる三角形が正三角形
であったことを証明できるであろう三つの記述が『魏志韓伝』とその
序文の中にあります。
『魏志』(東夷伝序文)と『魏志』(韓伝)に次のような記事があります。
明帝の公孫淵討伐の…
今ページは、読売新聞の広告欄のある記事が目に釘付けにな
ってし まいました。
“秘められた『邪馬台国』(八尋秀喜著)”という本の宣伝文の内
容に です。
その宣伝によれば・・・、“邪馬台国に至る(水行十日、陸行一
月)の謎を古代船「地球号」の実験結果と大宰府天満宮の「翰
苑」を駆使し、卑弥呼の都を突き止めます。…
新潟県胎内市に四世紀前半の墳墓が見つかりました。
2012・9月8日と9日に現地説明会が開かれ、私は9日の午後1:00
からの説明会に同席し、この日も前日同様一時間半位い待たされるこ
とになりましたが意義ある一日を過ごすことができました。
以下、新聞の報道と私の見てきた写真を紹介します。
まず、私の写真から・・・。
駐車…
例の、有名な、「那須国造碑」が祀られている神社です。(栃木県大田
原市にあります)
神社の入
り口です。
ここから右
奥の社務
所で、蚊が
ブンブン飛
び回る中、
ウチワで蚊
を払いなが
ら、宮司さ
んより「那
須直韋提
国造碑」に
ついての詳
しいレク…
今、わが国で話題沸騰の竹島問題です。
<『隋書』と竹島>
『隋書』(俀国伝)にはつぎのような記事があります
“「明年(大業三年「607)の翌年だから608年となります)、
上遣文林郎裴清使於俀国度百済行至竹島南望(〔身ヘンに冉〕羅国・
タンラ国・済州島)經都斯麻國迥在大海中又東至…
前㌻までの論証で、『日本書記』は、その全体を「郡」の文字で書き連
ね、その上、「改新の詔」と称して、「評」文字を再度「郡」の制度で被い
尽くし、その「評制」を基盤とした国家、すなわち、九州王朝を歴史上亡
きものにしようと企み、挙句の果てに、皇太神宮儀式帳(804年)でそ
の「評」制度までをも我が物にして九州王朝を葬り去ることに成…
前ページで言う・・・、二つの“なぜ”を語る前に・・・、
井上道貞氏が七世紀後半(700年以前)には「郡」ではなく、「評」の戸
籍制度の中にあった、という論証の中で扱われた証拠史料を示してお
きます(古田氏著の『古代は輝いていたⅢ』より)。
尚・・・、
〔史料・・・、〕とあるのは、どにような文章の中で記載されているの…
郡評論争のあらましを述べます。
645年、中大兄皇子と中臣鎌足が結束して蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼし
た(乙巳の変)。その翌年(646年)、孝徳天皇を筆頭とした新政権の
もと、新たな体制づくりに着手、主文の四項目と副文の十四ヶ条から
なる著名な「改新の詔」を発布した・・・、と伝えられている。
主文の第一項では・・・、皇族・豪族ら…
(日本書記による二つの年籍問題)
まず、前ページの下のほうに書いた、(*)「庚午年籍」、「庚寅年籍」
の説明文に注目してみます。
いつもの私の手元にある「日本書記(五)〔坂本太郎・家永三郎・井上光貞・
大野 晋 共著〕」の中の、おそらく、これが「庚午年籍」、「庚寅年籍」を
表していると思われるページの文章です。
まず「庚…
2012・6・13(水曜日)読売新聞の第一面に載
っている記事です。
しかも、そこには、“大宝律令前地方を直接支配”、
と書かれています。
<福岡県太宰府市の国分(こくぶ)松本遺跡で、
戸籍(*)に関連する7世紀末の木簡が見つかった
と、市教委が12日、発表した。正倉院に伝わる現
存最古の戸籍(702年)より古く、中央集…
2012年5月6日(日曜日)に、「歴史しゃべくり仲間」の河田氏のご案
内で、古田氏の東京講演に行ってきました。
85才のお歳にもかかわらず、凛としたよく通る声で自説を述べておら
れました。
道を究めた人はこのようになるのか・・・、サスガと感じ入りながら話に
聞き入る一日でした。
本題の“公偽私真”は、古田氏を取り巻く…