2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅣ
下の図は、北九州における代表的な五個の遺跡と銅鏡との対照表で
す。この図の全体を眺めてみると・・・、ある疑問点が浮かんできます。
(キ鳳鏡は夔鳳鏡と書きます。?マークは混入物ではないかとの議論
のあるところ、という意味。三雲南小路の○印は、手元の史料では数
を確認できないが、該当するカガミが出土しているという意味で、尚、
三雲では前漢鏡が合計35面出土しています。ハナサンピンの作図で
す。)

(尚、上の図で、「平原遺跡」では『四螭(チ)鏡』が一面出土しています)
まず、立岩遺跡の十枚の銅鏡は重圏文と内行花文の五枚づつの出土と
なっています。この重圏文鏡と内行花文(連弧文鏡)は、従来は弥生中
期初頭から弥生後期のカガミということになってました。それが現代では、
弥生後期、および弥生終末期のカガミということになってきているのです
(これは「平原遺跡」の発掘・検証以来のことからきているものと思われ、
ハナサンピンもその流れに乗るを妥当との見解で、上記二種のカガミを
弥生後期、及び弥生終末期の鏡とさせていただきました)。
このことは、三省堂 「大辞林」には、「立岩遺跡」は、“弥生前期末から中
期 にかけての遺跡群の総称”と載っています・・・。これは、「立岩遺跡」
では上記の「重圏文鏡」と「内行花文鏡」が出土しているからなのです。
まさに紀元前一世紀の鏡に倣う年代設定としての遺跡だったのです。
これは、昭和八年当初(立岩遺跡発見当初)は「重圏文鏡」、「内行花文
鏡」は「前一世紀頃のカガミ」とされた・・・、ということからきているもので、
当時としては、権威のある学者達による編年論ですから、それに添うよう
に、他の九州にある遺跡群も弥生中期の遺跡として認証されてきたので
はないでしょうか。そして私も、建前として、この重圏文鏡と内行花文鏡を
前一世紀(弥生中期)のカガミとして記載しようと思っていたのですが、平
原発掘以来、この二種のカガミがどんどん前に進ませるようなデータが
揃ってきたかのようで、上記の表についても弥生後期、あるいは弥生終
末期のカガミとさせていただいた次第です。
この現象の内容は、平原遺跡から発掘された土器にその端を発してい
るものと考えられ、鏡の年式にこだわらずに、そこで出土した土器の編
年によって、その遺跡自体の編年を識別するようになってきたことによ
るものと考えられます。
そしてその後、全国的にも、九州以外の弥生後期、古墳期の遺跡から
重圏文鏡と内行花文鏡が、各地で発見されるようになってきた。
この状況を受けて、この二種のカガミの年代が、次第に時代を前に進め
て弥生後期および弥生終末期などと認識されるようになってきたという
ことでしょう。
上記の表についてもう一度考えてみます。
「須玖岡本」や「三雲南小路」にして見てもどうでしょう・・・、同一甕棺内
に、これら二種類のカガミが混在出土の状況。
これまでは、「須玖岡本」や「三雲南小路」は、弥生前期、あるいは弥生
中期の遺跡として比定されてきた。
それが、上記の図を見ればハッキリしています。
・・・・・、この「須玖岡本」や「三雲南小路」も弥生後期、および弥生終末
期の遺跡と比定しなければならない状況になっていることが。
「井原」についても同じようなことが言えます。
・・・、江戸時代では、(漢代から魏・晋代にかけて盛行した鏡の一とされ
ている)方格規矩の20面(以上)の出土のみであったが、また、最近に
なって「井原」の近くで「内行花文鏡」が4面出土している。
・・・、これらの出土状況は、「井原」もやはり、「立岩」・「須玖岡本」・「三
雲南小路」等と同一年代に一直線上に並ぶ遺跡となっていることを教え
ているのです。
さらに言えば、「平原」もしかり・・・当然上記の四遺跡と同じ線上に並ぶ
べき遺跡となっていることがわかります。
故に、北九州を代表する五遺跡がすべて弥生後期、および弥生終末期
の遺跡となっていることが明白となりました。
この上に、も一つの重要な付け加えがあります・・・。
それは、吉野ヶ里遺跡です・・・。この吉野ヶ里は、弥生前期の遺跡とし
て語られてきた。そしてまた、吉野ヶ里遺跡の甕棺の6~7割が「須玖
式甕棺」となっていることが、ここにきて次第にわかってきた。
ここで、上記の表と、吉野ヶ里の甕棺が須玖と同じ年代の甕棺というこ
とを合せ考えると、吉野ヶ里も当然、上記五つの遺跡と肩を並べる同一
年代の遺跡と考えないと意味を成しません。
・・・ということは、吉野ヶ里も弥生後期および終末期の遺跡となること
になります。
そうです・・・、吉野ヶ里の晩期と卑弥呼の時代は重なってしまうことに
なるのです。
・・・、ということは、ここ吉野ヶ里は卑弥呼の宮殿を有明湾から潜入す
る外敵から守る軍事要塞基地となっていた、ということも知り得ます。
そして、ここ吉野ヶ里遺跡からは弥生以降の遺物が見付からないとい
う理由が、卑弥呼の景初二年の戦下の朝献、すなわち卑弥呼が「呉」
の国を見限り、魏に朝献したアカシ(証)を浮き彫りにさせていることを
知ることになるでしょう。
そして、卑弥呼は死に、吉野ヶ里も次第に廃墟の軍事基地への一途を
辿っていった、ということです。
ここで、これら五つの遺跡の年代をキメる決め手は・・・、というと「平原」
の土器による編年方法しかありません。もう、この遺跡の年代設定方法
に頼るのみです。銅鏡の年式は頼りになりません。
この方法がクラッシックで一番簡単で正確な年代設定をきめる、方法論
ということになるのです。
もう、ここで決まったじゃないですか。北九州博多湾岸の五つの遺跡が
卑弥呼の遺跡と同一年代遺跡であったこと・・・、が。
“魏使が通った道すがらの遺跡群であった”・・・、ということが!。
すなわち、卑弥呼が魏から下賜された鏡は漢鏡以外には、無い!、と
いうこともわかりました。
(三角縁神獣鏡を「伝世鏡」というなら、ここ北九州においても「伝世鏡」
なる『漢式鏡』が卑弥呼に下賜されていた、と考えても大過はないで
しょう。
・・・、いかがでしょうか?。そして、この日本国に下賜された100枚以
外の余分な漢式鏡は仿〔ホウ〕製鏡「国産鏡」であるかも知れない・・
・・・・、と。)
・・・、とこのように、自身の立てた説に都合よく「伝世鏡説」を導入した
つもりが・・、招かざる “北九州湾岸に卑弥呼あり”、の論説者にもこの
「伝世鏡」なる方便が、便宜を与えてくれる結果になる、ということが皮
肉にみえて哀れにも感じます。
次ページでは、これらの論証を確定的となる傍証を「須玖岡本遺跡出
土の「キ鳳鏡」に求めて論証してみます。
次ページもよろしく ・・・・・・・・・・・・では。
す。この図の全体を眺めてみると・・・、ある疑問点が浮かんできます。
(キ鳳鏡は夔鳳鏡と書きます。?マークは混入物ではないかとの議論
のあるところ、という意味。三雲南小路の○印は、手元の史料では数
を確認できないが、該当するカガミが出土しているという意味で、尚、
三雲では前漢鏡が合計35面出土しています。ハナサンピンの作図で
す。)

(尚、上の図で、「平原遺跡」では『四螭(チ)鏡』が一面出土しています)
まず、立岩遺跡の十枚の銅鏡は重圏文と内行花文の五枚づつの出土と
なっています。この重圏文鏡と内行花文(連弧文鏡)は、従来は弥生中
期初頭から弥生後期のカガミということになってました。それが現代では、
弥生後期、および弥生終末期のカガミということになってきているのです
(これは「平原遺跡」の発掘・検証以来のことからきているものと思われ、
ハナサンピンもその流れに乗るを妥当との見解で、上記二種のカガミを
弥生後期、及び弥生終末期の鏡とさせていただきました)。
このことは、三省堂 「大辞林」には、「立岩遺跡」は、“弥生前期末から中
期 にかけての遺跡群の総称”と載っています・・・。これは、「立岩遺跡」
では上記の「重圏文鏡」と「内行花文鏡」が出土しているからなのです。
まさに紀元前一世紀の鏡に倣う年代設定としての遺跡だったのです。
これは、昭和八年当初(立岩遺跡発見当初)は「重圏文鏡」、「内行花文
鏡」は「前一世紀頃のカガミ」とされた・・・、ということからきているもので、
当時としては、権威のある学者達による編年論ですから、それに添うよう
に、他の九州にある遺跡群も弥生中期の遺跡として認証されてきたので
はないでしょうか。そして私も、建前として、この重圏文鏡と内行花文鏡を
前一世紀(弥生中期)のカガミとして記載しようと思っていたのですが、平
原発掘以来、この二種のカガミがどんどん前に進ませるようなデータが
揃ってきたかのようで、上記の表についても弥生後期、あるいは弥生終
末期のカガミとさせていただいた次第です。
この現象の内容は、平原遺跡から発掘された土器にその端を発してい
るものと考えられ、鏡の年式にこだわらずに、そこで出土した土器の編
年によって、その遺跡自体の編年を識別するようになってきたことによ
るものと考えられます。
そしてその後、全国的にも、九州以外の弥生後期、古墳期の遺跡から
重圏文鏡と内行花文鏡が、各地で発見されるようになってきた。
この状況を受けて、この二種のカガミの年代が、次第に時代を前に進め
て弥生後期および弥生終末期などと認識されるようになってきたという
ことでしょう。
上記の表についてもう一度考えてみます。
「須玖岡本」や「三雲南小路」にして見てもどうでしょう・・・、同一甕棺内
に、これら二種類のカガミが混在出土の状況。
これまでは、「須玖岡本」や「三雲南小路」は、弥生前期、あるいは弥生
中期の遺跡として比定されてきた。
それが、上記の図を見ればハッキリしています。
・・・・・、この「須玖岡本」や「三雲南小路」も弥生後期、および弥生終末
期の遺跡と比定しなければならない状況になっていることが。
「井原」についても同じようなことが言えます。
・・・、江戸時代では、(漢代から魏・晋代にかけて盛行した鏡の一とされ
ている)方格規矩の20面(以上)の出土のみであったが、また、最近に
なって「井原」の近くで「内行花文鏡」が4面出土している。
・・・、これらの出土状況は、「井原」もやはり、「立岩」・「須玖岡本」・「三
雲南小路」等と同一年代に一直線上に並ぶ遺跡となっていることを教え
ているのです。
さらに言えば、「平原」もしかり・・・当然上記の四遺跡と同じ線上に並ぶ
べき遺跡となっていることがわかります。
故に、北九州を代表する五遺跡がすべて弥生後期、および弥生終末期
の遺跡となっていることが明白となりました。
この上に、も一つの重要な付け加えがあります・・・。
それは、吉野ヶ里遺跡です・・・。この吉野ヶ里は、弥生前期の遺跡とし
て語られてきた。そしてまた、吉野ヶ里遺跡の甕棺の6~7割が「須玖
式甕棺」となっていることが、ここにきて次第にわかってきた。
ここで、上記の表と、吉野ヶ里の甕棺が須玖と同じ年代の甕棺というこ
とを合せ考えると、吉野ヶ里も当然、上記五つの遺跡と肩を並べる同一
年代の遺跡と考えないと意味を成しません。
・・・ということは、吉野ヶ里も弥生後期および終末期の遺跡となること
になります。
そうです・・・、吉野ヶ里の晩期と卑弥呼の時代は重なってしまうことに
なるのです。
・・・、ということは、ここ吉野ヶ里は卑弥呼の宮殿を有明湾から潜入す
る外敵から守る軍事要塞基地となっていた、ということも知り得ます。
そして、ここ吉野ヶ里遺跡からは弥生以降の遺物が見付からないとい
う理由が、卑弥呼の景初二年の戦下の朝献、すなわち卑弥呼が「呉」
の国を見限り、魏に朝献したアカシ(証)を浮き彫りにさせていることを
知ることになるでしょう。
そして、卑弥呼は死に、吉野ヶ里も次第に廃墟の軍事基地への一途を
辿っていった、ということです。
ここで、これら五つの遺跡の年代をキメる決め手は・・・、というと「平原」
の土器による編年方法しかありません。もう、この遺跡の年代設定方法
に頼るのみです。銅鏡の年式は頼りになりません。
この方法がクラッシックで一番簡単で正確な年代設定をきめる、方法論
ということになるのです。
もう、ここで決まったじゃないですか。北九州博多湾岸の五つの遺跡が
卑弥呼の遺跡と同一年代遺跡であったこと・・・、が。
“魏使が通った道すがらの遺跡群であった”・・・、ということが!。
すなわち、卑弥呼が魏から下賜された鏡は漢鏡以外には、無い!、と
いうこともわかりました。
(三角縁神獣鏡を「伝世鏡」というなら、ここ北九州においても「伝世鏡」
なる『漢式鏡』が卑弥呼に下賜されていた、と考えても大過はないで
しょう。
・・・、いかがでしょうか?。そして、この日本国に下賜された100枚以
外の余分な漢式鏡は仿〔ホウ〕製鏡「国産鏡」であるかも知れない・・
・・・・、と。)
・・・、とこのように、自身の立てた説に都合よく「伝世鏡説」を導入した
つもりが・・、招かざる “北九州湾岸に卑弥呼あり”、の論説者にもこの
「伝世鏡」なる方便が、便宜を与えてくれる結果になる、ということが皮
肉にみえて哀れにも感じます。
次ページでは、これらの論証を確定的となる傍証を「須玖岡本遺跡出
土の「キ鳳鏡」に求めて論証してみます。
次ページもよろしく ・・・・・・・・・・・・では。
"2011・7・25~7・31北九州・山口の旅ーⅣ" へのコメントを書く