卑弥呼再考ー15 舶載鏡と仿製鏡ーⅢ

復のご質問ありがとうございます。
私と一緒に悩んでいて下さっているようで、有り難いと思っております。
私も、鏡についての年代設定方法には、不審きわまりなさを強く感じている一
人です。
見いだされた鏡の裏の記銘文や模様による年代を下支え出来る、幾つかの
事例を示しながら論証してくれていればいい。
(例えば、時代背景、あるいは、青銅そのものの成分を調べて見るとか、また、
埋葬された甕棺の大きさ・様式、他の遺跡との比較、など他にも色々あると思
いますが)
・・・そうすれば文字通り不動の設定論となっていたかも知れない。
・・・・・、後代の我々を納得させる事が出来たかもしれない。
文様のみによる年代設定法では不安定で仕方ありません。
それに加えて、後代偽作、と言われている戦後史学界の中の記紀に書かれ
た史料を真に受けて、文字の伝来の有りや無しを簡単に決定している。
これもおかしな話です。戦前史学のように記紀全体を信用して、それを概略
であっても史実として認めて論証しているのであればいい、しかし、そうでは
無いのが実のところ、一貫性が無さ過ぎます。
自分に都合の良いところを摘み食い、そこだけを信用して他はペケ。・・・の、
取り組み、殆んどの歴史家が、この道を歩いているのです(ここのところの話
は、後代、我々を含めた歴史学者のことを指しての話です)。
ですから、阿部氏のおっしゃるのは無理もないと思います。100年近く前に
設定された年代を今も使い続けているのですから。
大家の言うことには、みなさん(私も含めて)ゴモットモごもっともと、コウベを
垂れ続けているのですから、仕方ないのでしょう。

また『琴古面』での仿性鏡と漢式鏡のユニット出土。これは大変な事件・出
来事と私には見えるのですが、当時の学者さんたちは一体何を考えていた
のでしょうか、疑問符付きです。対岸の火事と、無関心を装っていたとしか考
えられません。
大正7,8年当時、歴史家が挙って丁々発止の議論を戦わせていれば、今
頃、状況はもっと好転していた筈なのに。

でも、ここで富岡氏の名誉のために、一言。
富岡氏の死の直前、銘文入りの仿製境が現れ、一瞬途方にくれた思いをし
たであろうと、予想がつきます。この銘文入りの仿製鏡と思しき鏡を真の仿
製鏡と認めたとすれば、どうでしょう。おそらく、それまでの古代史の体系が
崩れ、その崩れたものを構築し直すには自身の命に余裕がありません。余
程無念の思いで世を去っただろうと、この私にも察しがつきます。

ところが、この富岡氏の後を継いだ学者さんたちが、頂けなかった。

富岡氏の遺稿を良く見れば誰でも判るとおもいますが、氏自身気付いていた
矛盾に、誰も目を向けず、触れもせずに、それまでの理論を唯々諾々と受け
継ぎ、氏の矛盾点を抱えたままに古代を説き続けてきた。・・・、これがいけ
なかったのです。
彼等が、暗中模索の古代史の幕を覆い続けている原因を作った張本人です。

銅鏡は、中国「漢」の時代に起源を持ち、それが韓半島を経由して日本に入
って来たものです(周の戦国時代に起源を持つといっている人もいますが)。

元々銅鏡は御婦人のために作られたもので、それが次第に男性の、名誉と
か(位人臣を極める)の「位」、を表した文が記銘されるようになり、日本に伝
わった時には、卑弥呼の、「鬼道に事え、衆をよく惑わす」の例えのごとく、太
陽信仰の中の鏡と、鏡自身の持つ霊力で人臣と人民を司る道具となっていっ
た、と伝えられています。
この発展史の中の、銘文の文意の変化に、年代を探る根拠を求めてきた・・・
、と、これが年代設定の基準となってきたのです。
これが、今でも続いている方法論ということです。

結局のところ、記銘文だけによる年代設定、・・・、これでは不安定極まりない
お思っているのですが、年代設定方法が昔のままです。
富岡理論より百年近く経ているにも拘らず、現状は昔のまま。色々な情報が
枝葉となって取り巻いているのに、それも昔のまま。いい加減に目を覚まして
戴きたいものです。・・・、そうおもいませんか?。

タメグチというか、グチの為というか、ツイッター調でのお答えですみませんで
した。

さて、本題にもどります。
結論を示す前に『細剣』と『中広剣、広剣』の関係について触れておきます。

通説では『細剣』は王族の中でもほんの一部の王のみか、家臣の極く限ら
れた人が、護身用として、また「宝物」として所持されていたと考えられてい
る。
そして、この『細剣』を取り巻くような形で、多くの『中広剣・広剣』が発見され
ている。
しかし、この『中広剣・広剣』はもちろん甕棺から発見されているのではなく、
多くは『細剣』の周辺、(常識では考えられないようなところから)突如発見さ
れている、という状況のようです。

これは何を意味しているかと考えると、
*『細剣』は精功を極めた武器で、それを所持している人は「王・王族」であり、
 通説では「宝器」として、見做されている。
*『中広・広剣』は、作りも粗雑で、門番か、一平卒の兵士が、他を威圧する
 ための、パフォーマンス的に所持していたと考えられている。

従来、銅鐸の発展史の中で、小さいサイズの銅鐸が古く、時代を経るに従
がって、少しずつ大きくなって行くという理論を、『細剣』と『中広・広剣』の関
係に当てはめ、『細剣』が古く『中広・広剣』が新しいという発展法則を案出、
お互いバラバラの時代に作られたという考え方を示してきました。
・・・・、ということになると、『中広・広剣』のように粗雑な剣を作り始めたら、
宝器として珍重されていた『細剣』が姿を消してゆく・・、ということになり、・・・
・・、と、これも奇妙な発展史的な見方にみえます。・・・、であれば、もっと多
くの『細剣』がアチコチで発見されていいと思いますが、『細剣』は極々少数し
か発見されていない。
このように考えると、『細剣』と『中広・広剣』は、同一期、王朝内で、対を成
して使用されていた。・・・と考えた方が当をえた考え方にみえますが・・・・・、
が、どうでしょう?。

(この、『細剣』と『中広・広剣』が別々の時代に作られたとする考え方は、・・
・・・、日本で作られた剣は粗雑品で、中国で作られた剣は質の良い「宝器」
として珍重されるような出来映えである、・・・、の考え方からきていたもので、
しかし、後に、北九州で細剣の鋳型が発見された時に、ようやく『細剣』も日
本産であったと、認識されるようになった)

すなわち、『細剣』は王族の中の「王」を表し、『中広・広剣』は王の家臣を表
していて、王とそれに従属する家臣団との関係を象徴的に物語っているよう
に見えます、が・・・、これも一応仮説としておきます・・・。

ところが、この対を成して発見されていた武器、『細剣』と『中広・広剣』との関
を、『仿製鏡』と『漢式鏡』の関係の中に准えることの出来る発見がありました。

北九州で、別々の遺跡で発見されていた『仿製鏡』と『中広・広剣』の一見バ
ラバラに見える関係を、有機的に一対を成した形で捉えることの出来る遺跡
が韓半島南部の『琴古面』から発見されていました(両銅器、共伴発掘による
ものです)。

そこで、
仿製鏡の分布図を見てみます。(もちろん古田氏の作図によります)
画像




















上図の中で、仿製鏡の中心地域が博多湾岸(筑前中域)となっていることが
判ります。
しかし、この中心地域(筑前中域)は寂しい位「小型仿製鏡」が見つかってい
ない。
この寂しい筑前中域に「漢式鏡」の分布図をスッポリ入れると、どうでしょう。
筑前中域は銅鏡発掘の中心領域となり得るのが、お判り頂けると思いますが、
いかがでしょうか?。

まさに、・・・、
これが、韓半島南部の「琴古面」での、同一遺跡で「漢式鏡」と「小型仿製鏡」同
時発見が、上記の仮説を定理の道へと導いてくれる偉大発見であったことを、意
味していることが、お判り頂けると思います。

次ページでも、この続きを書きます。次もよろしく・・・、では。

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