倭の五王ー28 広開土王碑―Ⅶ

 本題に入ります。
 前々々ページで書いたことを、また書きます。

 【百残(百済)や新羅は、旧(もと)「高句麗」の属民であった。そこで由来、朝貢してきていた。倭が辛卯年(391
 あるいは331)に(百済・新羅の地に)やって来た。(そこで王は)海を渡って百残を破り、新羅(と共に)、これを臣
 民としたのである。】

百残新羅舊(もと)是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅以為臣民。

  これが問題の碑銘文です。
 【百残~・・・・~これを臣民としたのである】
  この通訳文を私なりの解釈を書いてみます。
 《そもそも百済や新羅は旧(もと)はといえば、(高句麗)の属
 民であった。そして、その昔から従属民としての朝貢をしてき
 てくれていた。そのような状況下「倭」は我が国(高句麗国)と
 百済・新羅の間に割って入って百済・新羅を倭国の臣下としよ
 うとして来た。そこで我が王(高句麗王)は、海を渡って、倭の
 臣下となろうとしていた百済(新羅はチクッたのであろう)を征
 伐して、ふたたび、新羅と共に百済を臣民とさせた〔旧(もと)
 の鞘に納めた)。》
 
  これを、別の論者は、
 倭以辛卯年~以後を、「倭」を主語として、
 『倭が辛卯の年に海を渡ってきて、百済を破り、新羅をも臣民
 とした。』という解釈をしていた。
  この論法から言うと、高句麗の王(天子)が自国の勳績碑に
 倭の功績(勳績)を刻銘したことになります。これはおかしな話
 だと思いませんか?。高句麗の王(天子)が敵国である(倭)の
 功績を碑に掲げる、という馬鹿げたことをするはずは無く、やは
 りここは、高句麗の王(天子)が倭を払いのけて、百済・新羅を
 再び臣民とした勳績を述べている、としたことの方が(私も)正
 しいと思います。

  そしてこの【百残~~~・・・~~】の中の「倭」という刻銘字
 は明治の大日本帝国陸軍によって改竄・捏造されたものだ、と
 いう論者(在日朝鮮人、歴史学者の李進熙)も居り、日本帝国
 軍が朝鮮半島進出するための根拠にしょうとしての改竄だった
 のではないか、と(碑の拓本をとった帝国陸軍の酒勾)を批判
 してきたのです。
  しかし2006年に中国社会科学院の除建新により現存最古
 の拓本と日本陸軍の酒勾(さこう)の拓本が完全に一致してい
 ることが判明し、改竄・捏造説が否定された。
  【私もこの碑文をめぐる争いの結末を見て、一瞬、なーんだこ
 れは、・・大山鳴動して鼠一匹・・か、と、一笑に付す、単なる
 事件かと思いきや、よくよく考えてみると、古代の倭の領域が
 漠然とではありますが、浮かび上がってくるのを覚え。古代を
 研究する歴史家にとって、興味をそそられるのも無理はない
 古代史界に厳然と聳え立つ碑であるという認識をもちました。
  晴れてここに、古代(弥生時代始め頃から)の倭は朝鮮半
 島に勢力を伸ばしていたという事実を証明することが出来る
 ようになった、と、ホットした思いもありました。】

 また少々道草のような気がしますが、国生み神話から、倭の
 領域を探して見ることにします。・・・・・次ページにて・・・・・

   

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