(1)末羅國はやはり通説通りの唐津周辺の地であった

福永晋三氏を信奉する人達によるつぎのようなブログアップ
に出会いました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【倭人伝には、韓国南部の「狗邪韓国」(韓国・釜山)から海
を千余里渡ると「対海国」(対馬国)=長崎県対馬市=に至
るとある。換算すれば約70キロ。現在の両地点(釜山・巨
勢島-対馬・浅茅湾)の行程70キロとほぼ等しい。さらに          
倭人伝には、対馬から「南一海を渡る千余里」で「一大国」
(一支国)=同県壱岐市=に至るとしている。両地点間も約
70キロにあたる。

福永氏と同研究会、読む会のメンバーら約20人は4~5日、
福永氏の新説に沿い、一支国から田川に至るルートをたど
った。

・・・・・「末盧国」は「宗像市」・・・・・

倭人伝に登場する国々の中で、唯一王都として特定されて
いるのが、一支国の「原の辻遺跡」だ。邪馬台国と同じ弥生
期の大規模環濠集落や日本最古の舟着き場跡が発見され、
国特別史跡に指定されている。

「一支国」の王都とされる原の辻遺跡(長崎県壱岐市)。
             弥生時代風の集落が再現されている」


 ・・・ここからが、福永氏の説だ。倭人伝には一支国から
「一海を渡る千余里」で末盧国(まつろこく)に至るとある。
壱岐市から約70キロの末盧国を宗像市と比定するのだ。

末盧国の有力地、佐賀・松浦地方では、壱岐市からの距離
が近過ぎると指摘。倭人伝の「魚鰒(ぎょふく)を捕ふを好み
水深浅と無く皆沈没して之を取る」との記述は魚やアワビを
捕る海女漁を指し宗像市が「日本海の海女発祥の地」
として知られることにも着目する


同市にある弥生期の田熊石畑遺跡は、6基の木棺墓から武
器型青銅器15本が出土した集団墓や環濠、船着き場の推
定地もある集落。北部九州有数の有力者の存在をうかがわ
せる場所を末盧国の王都と推定している。

卑弥呼は大任町に?

末盧国の次に登場するのは伊都国だ。

ここで、福永氏は「伊都」の読みは「いと」ではないと主張す
る。記紀や播磨国風土記にある「伊都」はすべて「いつ」と
読まれているためだ。この点から、伊都国を糸島市付近とす
る定説に疑問を呈している


倭人伝によると、末盧国から「東南陸行五百里」の場所が伊
都国とある。

伊都国から東南へ百里(約7キロ)行った「奴国」は飯塚市付
近、そこから東へ百里(同)の「不弥(ふみ)国」は糸田町付
近にあたるとそれぞれ推定する。倭人伝の記述では、この後、
「南のかた投馬国(つまこく)に至る、水行二十日」、「南のか
た邪馬台国に至る」と続くが、福永氏はこの2文は入れ替わ
ったものと推測。不弥国のすぐ南側、現在の大任町付近に
邪馬台国があったと結論付けている。

今のところ、伊都国以降の国々の存在を裏付けるような遺跡、
ゆかりのある地名などは見つかっていない。ただ、筑豊地域
には、神武天皇や神功皇后など、邪馬台国前後の伝承のあ
る神社や遺跡が点在しており、記紀や万葉集にもこれらを裏
付ける地名が多数認められるという。

福永氏は「筑豊に隠れた古代の歴史を見れば、そこに邪馬台
国が存在したことはごく自然なことで、矛盾もない。今後の研
究、調査で説を裏付ける発見があることを期待したい」と話し
ている。 (吉丸宣孝)】
                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記は、㊀、;の赤、緑、青文字をそれぞれの条件にし
て、現在の大任町付近(福岡県田川郡)に女王国(邪馬台国)
があったと結論付けている。しかし、①、②、③それぞれに正
当性を持たせる証拠でもあるというのだろうか。……それが、
どうも怪しげに見えたので………、

そこで、反証へ…と繋がるのですが。
但し、今ページは、の条件についての論証になります…。

上記の記述を見るまで、これまでは通説通りに自然の流れで
地図を追ってゆけば、狗邪韓國から末盧國まで、地図上南へ
南へと南下、そのまま末盧國(現在でいう唐津)へ上陸する読
み方でいいと思っていました。

ところが
上記の記述をみれば・・・どうでしょう。出だしの初っ端からか
ら我々の解釈と違っているではないか。そう!、普通は現代で
いう釜山近辺を狗邪韓國とし、そこを對海国への出発地として
いるところなんですが…、(はてはて、末蘆國へ入る前にすで
に問題の発生です)

彼らは(狗邪韓國の領域内であればどこの地域でもokと考えて
のことなのか)釜山から南西方面に地図上、ひと目で確認でき
るくらいの大きさの、しかも、結構離れた(周、魏、西晋短里で
700里・約50㌔)位置にある島(実は半島か?)の巨済島を狗邪韓
國に比定、そこを對海国への出港地としている。
このように異説を唱えるときはその理由とその証拠の提示が肝
要なのでは。
(下のグーグルアース-1をご覧の上、ご確認ください。)
尚、下図の正三角形が二つ組み合わせの平行四辺形は「魏志
韓伝」の“韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千
里有”〔韓は帯方の南に在り、東西海を以って限りと為し、南は
倭と接す。方(立横)四千里有るべし〕の記述からくるものです。
(グーグルアース)図-1
画像















確かに地図上で見れば…、
距離的には巨済島から浅茅湾の方が、釜山から對海國へよ
りは比較的短くて、倭人伝の(1000余里)に合致しているよう
に見えて“なるほど”と思わせますが、但し、それは地図上で
の話、陳寿の話しとはなりません:。
地図上の距離の一致をもって倭人伝の記述にマッチしてい
ると断じるのは早とちりに過ぎるのでは。
彼らの議論は倭人伝の記述内容や歴史的地政学上の検証
については一切お構いなし、藪から棒で唐突な提案。何か
恣意的な感じを受けます。

韓国南辺の釜山までの行進中に巨済島への立ち寄りで、最
終到着地の釜山からの出港となれば何の問題もないのです
が……、
それをもし、一旦は釜山まで直行し、そこからまた巨済島まで
引き返し、そしてそこを對海國への出港地とした場合は、(釜
山)から(巨済島)までの距離が発生します。この距離の発生
が問題で、倭人伝の記述に矛盾を来してしまうこと明白。
その矛盾の穴埋めは誰がするのでしょうか。

この矛盾の距離の発生の理由を次に示します。

倭人伝の冒頭部の再掲です。  “從郡至倭 循海岸水行 
歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里”の記述
です。

当時の人たち(魏の朝廷人)にとってはこのように簡略形の
文面でも一目で、“なーんだ、あのルートか”、と軽い一瞥で
理解できたかも知れませんが……、現代人のわれわれにと
っては、果たしてどうでしょう?。

倭人伝の冒頭部の文章を上記の地形図と照らし合わせなが
検証することにします。

そのキーワードは“乍南乍東”の語句です。

日本では古来より、“乍南乍東”に対しては日本固有の読み
方をしてきたようです。
「乍」を、〔なが(ら)〕、〔…にもかかわらず〕、〔…しつつ〕の用
法で(漢字辞典に書かれています)。

そして、中国ではどのように読まれていたかというと、漢字辞
典によれば、「乍」は〔たちま(ち)〕の意で……。
「乍A乍B」の形で、Aがおこるかと思えば、急にBがおこる、の
意をあらわすことば…、
……となっていて、双方かなり違った読み方となっています。

ここで、上記、倭人伝の冒頭部の文章を日本式と中国式の
「乍」のそれぞれの用法で読んでみます。

(1)日本式では……、
   從郡至倭(郡より倭に至るに) 歴韓国(韓国をへるに)循
   海岸水行(海岸線に循じて水行で) 乍南乍東(南へ行っ
   たり東へ行ったりしながら) 到其北岸狗邪韓國(其の
    国の
北岸の狗邪韓国へ到る) (郡から狗邪韓国まで)七千餘
   里。…と読みます。
   〔これが今でも通説となっいますが、この読み方は(循海
   岸水行)の前に(歴韓国)を持ってくる読み方なので、文
   法的には問題にすべきところではありますが〕。

(2)中国式では……、
   從郡至倭(郡より倭に至るに) 循海岸水行(郡の最寄りの
    海に出て、そこから)
、海岸線に従って(韓国の西北端に一旦は上
    陸、そしてそこから)
、歴韓国(韓国を歴るに) 乍南乍東(南
   へ行ったかと思えば、急に東へ、東へ行ったかと思えば、
   また急に南へ、(と、これを繰り返してゆくと)、到其北岸狗邪韓
   國(其の倭国の北岸狗邪韓国に到る (郡から狗邪韓国までの   
    トータルが)
七千餘里。……、と読むことになります。
(中国式では「循海岸水行」の前に「歴韓国」を持ってくる読み
はしていません。「水行」は帯方郡治領海として、「歴韓国」は
一応外国としての扱いで、東夷の韓国、とキチンキチンと区
別した読み方となっているので、両者どちらを前に持っていこ
うか、後ろへ持っていこうか悩む必要は全然ないのです。原
文通りに「歴韓国」は後ろでいいのです。 いや!後ろでなけ
ればならないのです。)

このように、双方の読み比べは、日本式の(ながらながら)で
は“・・・しながら”の意味が何をするかの行動がハッキリしな
いので、“エイッ面倒だ”、とばかりに“歴韓国”を(循海岸水
行)の前に置いて読むことになり、結果、好むと好まざるとに
かかわらず、仕方なく韓国の西海岸と南辺海岸の航行の読
みとなってしまい、上図の平行四辺形から…、4000+4000=
8000里、となって倭人伝の里程記事の7000里を1000里もオ
ーバーしてしまう読み方に陥ってしまうのが道理で、賛成し
かねる用法に見えます。

それに比べ………、
中国式では“カキっカキっ”と鋭角的な動きを表し、陸上交通
ならではの表現で、また、何だかんだいっても、倭人伝は中
国発の史書ですから、中国式での読みでOK、としたもので
しょう。
中国式の(水行)から(上図形中で)韓国のAからBへの対角
線上をジグザグ(洛東江の鉄の生産地を視察しながらの通
行で)の行進の読みがふさわしく魏使の旅姿が目に見えるよ
うです。

ここで、ジグザグの陸路行進についてチョットした私の新発
見のご案内です。

ずっと以前(2013・3・9)のことになりますが、“遂に倭人伝の
道程が解けた!。”の中で、下の(図ーF)を参照にしながら
のご説明だったのですが、その時の彼等は“あのような四角
定規の行進では好きな所へゆけるわけがないだろう…。もし、
大きな山や川に出くわした場合はどうするのだ…。また、逆に、
大きな山自身が四角定規の三角形の行路を避けながら動い
てくれたのか”、”など等、皮肉交じりの“ヤンややんや”の騒
ぎに発展、結果、大いなる顰蹙を買って散々な思いをしたこ
とがありました。
その説明の図が下の(図―F)です(古田氏作図より)。
(図―F)
画像





















(図ーF)のジグザグ〔古田氏は(階段式)と云う〕は細かくキチ
ンキチンとし過ぎているのを気にしていたのかも…、と当時を
回顧しているのですが………、

上図の懸念に対して、次が今ページ本命の(私の新発見の)
(図ーM)です。
     (図ーM)
画像













上図を見て、どうでしょう。(図ーM)なら(図ーF)を補って余り
あるのでは…と。

(図ーM)のAECの範囲内で、対角線上から遠い障害物はそ
の対象物を遠巻きにする大きさの直角三角形を…、近いとこ
ろはそれなりに小さい三角形で………、大小様々な相似形直
角三角形をACの対角線上に並べながらのジグザグの行進を
想定したら、どうでしょう。今述べた条件の下「(AFCの範囲内)
と(相似直角三角形刻んで)の組合せ」なら何処へでも行ける
ではないか。・・・・・・・・・、
私の頭を覆ってきた暗雲が一掃される思いがしました。
もう顰蹙を買うこともないであろう。
やはり、古田氏の(図ーF)の概念が正しかったのだ、……と。

これらのことから、倭人伝の読みは中国式でないと“こりゃだ
めだ”、という結論に至るのでは。

中国式で読めば、上図AからBへの対角線上のジグザグの距
離(5500里)は三角形の定理から、(水行)の距離(7000-5500
=1500里)も算出が可能になり〔(図ーF)をご覧ください〕、距離
としての記載はなくても、(水行)の距離1500里が導き出される
ことになります。

1500里が導き出しから………、
ここからが批判の本番です………。

上のように、距離(1500里)を表に出さない記載方式(省略法?)
を真似してのことなのか……、
自分たちもおよそ700里を隠しだてしても文句はなかろう…と、
勝手に何の理由も述べることなく狗邪韓国から巨済島までの
距離(少なくとも700里)を発生させ、浅茅湾への出発地とする。
………、と次からつぎへと、インスピレーション論証を繰り返し
ていますが、中身がよくわからない。
わたしの不審の増幅の始まりです。

以上、“実は(歴韓国)は(陸路のジグザグ行進)であった”、と
いう点から(狗邪韓国を巨済島に比定する)のは間違いであ
ることを証明してまいりましたが、この批判の矛先はまだまだ
あります。

次ページも“狗邪韓国は巨済島ではありません”。…ということ
を歴史的観点から探ってみようと思っています。

………次ページもよろしく。………では。

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