“秘められた『邪馬台国』(八尋秀喜著)”の嘘-4

狗邪韓國から末羅国までの南へと下る行程記事の訳です。
もう一度、狗邪韓國から末羅国までの航路をグーグルアースで下に
示しておきます。
画像
















對海國と一大國通るところの原文を八尋秀喜氏はつぎのように解説
しています。

①“始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島
 方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食
 海物自活乗船南北市糴 ”

略意:初めて海を渡ると一千里余りで「対海国」に着く。この国の大官
 は「卑拘」といい、副官を「卑奴母離」という。ここは孤島で幅は四
 百里余りである。山は険しく深林が多い。道路は鹿が歩く小道のよ
 うで千戸余りあるが良田は無い。海産物を食べて生活しているが、
 船に乗り南北から米を買っている。

②“又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離
 方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南
 北市糴”
略意:さらに、南に瀚海と言う名前の海を千里余り、渡ると「一大国」
 に着く。ここも官を「卑狗」、副官を「卑奴母離」という。幅は三百里
 余りで竹林や雑木林が多く、三千戸程の家がある。田畑は少く食
 物が足りず、この国も南北から米を買っている。

(注、市糴=米、粟などを買う、転じて交易ともいう。)
(私案=交易というと物々交換、あるいは何かの貨幣との交換が考え
られ、その場合の貨幣は「鉄」であったのではなかろうか・・・と。)

①"、“始度一海千餘里至對海國方.....略......可四百餘里”
 

 氏は、「方可四百餘里」を“四百里余り”と解している。

②"、“又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國...略...方可三百里.....略...”

 こちらも、對海國と同じように(幅は三百里余り)と訳している。


“方可四百餘里”と“方三百餘里”の“方”を“幅”と訳す考えはどこから
 出る言葉でしょうか。

 
倭人伝(陳寿)の場合の「方」とは、四角形(この場合は正四辺形、平
行四辺形)の四方向の一方向を「方」で呼び、島(あるいは、区画され
た区域)の面積、及び周囲の距離や、そして今問題にしている、對海
國・一大國の場合の半周の距離を求める時に相応しい、一目で理解
できる単純にして簡潔な記述法の「方」です。

このように、『魏志』に則った法則のもとで表された重要な文字をいと
も簡単に、我々受け取り側にとっては、紛らわしい“幅”、で代用して
いますが、このような解釈は、『魏志』全体を見ずして倭人伝の局所
のみを凝視した、いわゆる“山を見ずして森を見る”のごとくの、文意
を見極めもしない物語風の読み方と言っても仕方ないでしょう。

そうなんです、どこまでまで読み進んでも、「方」の文字が訴えている
深い意味の論証がどこにも出てきません。

一応、今、この““幅””という提示を認めることにしましよう。
・・・であるとしても、八尋氏のこの“幅”は、一体、何処からどこまでの
範囲をもって「幅」と見なしているのだろうか、曖昧模糊として分かりま
せん。
・・・で、氏は、船で対馬に近付いた時点で、ザット見の目見当の景色
を「幅」で表現しようとしているのでしょうか。

氏の訳には、この“幅”がどれ位の距離になるかについても、また「幅」
のもつ概念にも、無関心のように触れていません。

考えるに・・、前ページ、古田氏の「新案特許」の図の①・点行(島の一
点を通り過ぎる読み方)のように島の陸地を通らず海岸線のある地点
からつぎの島へと通り過ぎる・・・、という立場の読法で解釈しようとして
いるのでしょう。

・・・ということになると、
氏は、魏使が倭国に赴く旅は、ただ単に下賜品を届けるための旅と考
えて解釈しているようですが・・・、そんな旅への考え方が中国朝廷に
通用するでしょうか。
・・何事にも抜け目の無い中国朝廷が、わき目も振らず、帯方郡から唐
津まで海岸線を遊覧船で周遊がごときの旅をするとは。
考えられません。
そんな悠長な旅をするはずが無いでしょう。

倭人伝に目を凝らし見れば、魏使が對海國や一大國を経過する時、陸
上を通ったケースの記述がアチコチにあります。

例えば・・・、(氏も略意として訳しておられるように)、
(上記、①、②をもう一度掲載します。)
“始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可
 四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自
 活乗船南北市糴 ”

略意:初めて海を渡ると一千里余りで「対海国」に着く。この国の大官は
 「卑拘」といい、副官を「卑奴母離」という。ここは孤島で幅は四百里余
 りである。山は険しく深林が多い。道路は鹿が歩く小道のようで千戸
 余りあるが良田は無い。海産物を食べて生活しているが、船に乗り南
 北から米を買っている。

“又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可
 三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴”
 
略意:さらに、南に瀚海と言う名前の海を千里余り、渡ると「一大国」に
 着く。ここも官を「卑狗」、副官を「卑奴母離」という。幅は三百里余り
 で竹林や雑木林が多く、三千戸程の家がある。田畑は少く食物が足
 りず、この国も南北から米を買っている。


上記、青文字で記述されているように、對海國、一大國二島の記述は
完全に陸地進行によってのみ得られる情報です。

(但し、對海國の場合は、現在の対馬を見てもわかるように、上県郡
 と下県郡に分かれていますが、魏使が通った陸地は下県郡だった
 ようです・・・古田氏説による)

氏は、この青文字で示した文章に無関心を装っているようですが、こ
れについてどのように弁明しようとするのでしょうか。
これら對海國、一大國の二島の文章は、陸地の軍事状況を視察する
ための旅であったことを記していたのであり、また、イザッ・・・、倭国
に事あれば、これら二島の海岸線を航行する場合にはどれだけの距
離があるのかを探る旅でもあった、ということが狗邪韓國から末羅国
までの真の記述だったということです。

このような考え方で、狗邪韓國から末羅国までの距離を計算すると、
狗邪韓國から對海國.............1000里。
對海國半周.......(400×2=)800里。
對海國から一大国..................1000里。
一大国半周.......(300×2=)600里。
一大国から末羅国..................1000里。

すなわち、狗邪韓國から末羅国までの距離は合計(1000+800+
1000+600+1000=)4400里。・・・となり、氏の言う狗邪韓國か
ら末羅国までの距離を3000里としているのと1400里多くなってい
ることが分かります。

後で述べますが、実を言うと、この1400里が、古田氏をして倭人伝
を真実の歴史書としてトコトン信用させ得る極めて重要なポイントと
なる数字であった・・・・・・・と。
・・・・、言い換えれば、古田氏が“方○○里”に隠された意味を発見し
た史上初の人物であった、ということにもなります。

次ページは、末羅国から女王国までの行程の論証に入ります。

次ページもよろしく・・・、では。

下のコメントに対する私の「瀚海」の図です(図ー1)。
画像












もう一度詳しい、(上、下県郡)と対馬暖流、瀚海、黄海、鼇波(日本
海)についての関連概念図です(図ー2)。
画像











中国、韓半島側は上図のように「瀚海」を見ていたようです。
(注、「鼇」の意味=おおがめ・想像上の大きな海がめ・海中に住む
背には蓬莱山などの仙山を背負っているという大海がめ。
・・・・・・「鼇載山抃(鼇、山を戴いて抃ず)」<楚辞・天問>
・・・このことから、古代の中国の目には、少なくとも弥生時代まで
は日本国には蓬莱山が存在していたと想像、日本海そのものを
「大海がめ」と名付け、その向こう側に聳える富士山を蓬莱山と見
ていたのでしょう。)

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この記事へのコメント

憂鬱な日々
2013年04月13日 18:45
「但し、對海國の場合は、現在の対馬を見てもわかるように、上県郡と下県郡に分かれていますが、魏使が通った陸地は下県郡だったようです・・・古田氏説による」と解説をしていますが、ハナサンピンさんはそれで納得なさっているのですか?。

プサンから対馬に近づけば、ハナサンピンさんが上県郡とお書きの、上島(かみじま)部分が先に目に入るのに、それを無視するのは変です。

對海國は対馬全体ではなく下島(しもじま)部分だけだったというのでしょうか?。
仮にそうだとしても、「陸地の軍事状況を視察する
ための旅」であったら島全体を巡るでしょう?。

「魏使が通った陸地は下県郡」という古田説は、方400に合わせるための方便なのでは?。

「方」に関するハナサンピンさんの解説を拝見しましたが、正方形かひし形なら4辺が同じですからそのように表すことが出来ますが、対馬のように細長いものを表す時はどうするのですか?。
2辺の長さが異なるのですから「方400」で済ますことはできません。
その形が正方形になるかひし形になるように、「魏使が通った陸地は下県郡」だと言わざるをえないのではないでしょうか?。

数字だけ見れば、それぞれの島の横幅と捉えたほうがすっきりしますし、一辺の長さだけで全体像を表現することはできないと思います。
ハナサンピン
2013年04月14日 23:20
>「魏使が通った陸地は下県郡」だと言わざるをえないのではないでしょうか?。

確信を持っているわけではありませんが、今のところ“その通りです”と。“下県郡だけを通った”と理解しているところです。

三世紀では、現在で言う下県郡へ中国の関心の集まる島で、上県郡はそれほどの関心をよせる島ではなかったのではないか、と。

それは・・・、
原文で、「対海国」で書かれているところを、従来説では、それは“「対馬国」のあやまり”、として改定されそのように読まれています。現在では、この対馬を呼ぶ時のその概念は上県郡と下県郡を一まとめの称呼に見えますが、原文の「対海国」は中国側から名づけられた「翰海」に対する「海」としての名前です。

そして、この「翰海」は、「黄海」と「鼇波」の間の、しかもその対馬の南に広がる対馬海峡の海のことを指していのです(この概念図は、上記の本ブログの最後に示しておきました)。尚、上記出示した「鼇波」は翰苑 (かんえん)の次の記事によります。それは、“「境は[魚是]壑(ていがく)に連なり、地は鼇波に接す。南、倭人に届き・・・。〈雍公叡註〉・・・からくるものです。
この「鼇波」は日本海であることは、前にも論証しておきました。すなわち、「翰海」は対馬海峡においては、比較的広い海として、その広い海の方向の(広い「海」に「対」する・すなわち、「対海」とする)下県郡を「対海国」と名付けたものと思われます。
・・・ですから、「対海国」といえば、対馬全体を指すのではなく、下県郡を指した国名だった、ということになります。

つぎへ・・・。
ハナサンピン
2013年04月15日 11:30
つまり、本ブログの図をご覧のように、下県郡が「翰海」に囲まれていて、そこを「対海国」としたのではないか・・・と。

そして、しかも、上、下の県郡の接しているところはその昔は海水が通っていただろうし、今現在でも深い入り江となっているから、船の停泊所としては最適だったろうと思われます。韓半島南岸から来る他の船もここを常に停泊所として利用していたことが予想されます。

この停泊所から下県郡の西海岸から一大国に一番近い対海国の東南端までを周旋する距離が800里となることを魏使が知って、その南北に長い島を正方形に描き直して「方400里」(対海国の面積とその島の半周の距離800里)の表現になったものと思われます。

「遂に倭人伝の道程が解けた!、のページ」で・・・、
>私も、韓半島の南岸は狗邪韓国(倭国地)であることを踏まえています。(ただし、それが今のプサンあたりかどうかは分かりません。)・・・と、このように述べられているように、「狗邪韓国」も三十カ国の一つの国であることは確かですので、当然、その国にはそれ相応の広さと範囲(海岸線)を有していたはずです。

それゆえ・・・、
「狗邪韓国」からの出発地点は、プサンばかりと限定する必要もないので、ある程度の範囲のどこから出発したとしても構わない表現になった、と私は思っています。

しかし、チョッと話が逸れますが、このように憂鬱な日々さんのコメントは大事なポイントを見越した指摘に見えて、正直のところ驚きで一杯で書いています。実のところ、この部分は曖昧に通り過ごしたところなので、私もこのコメントを記述している間も考えさせられることが盛り沢山で感謝の念に堪えません。ありがとうございます。

つづきへ・・・。
憂鬱な日々
2013年04月15日 22:25
長崎県立対馬歴史民俗資料館のサイトには、対馬の北東部にある「塔の首遺跡」について、『上対馬町比田勝【ひたかつ】港の北東、西泊【にしどまり】湾をのぞむ低い旧岬上にある弥生後期墓地で、箱式石室4基からなる。』と紹介しています。

人っ子一人いないような所なら別でしょうが、そのような遺跡がある場所です。ハナサンピンさんの「上県郡はそれほどの関心をよせる島ではなかった」という主張は当たらないように思います。
憂鬱な日々
2013年04月15日 23:25
『上、下の県郡の接しているところはその昔は海水が通っていただろうし、今現在でも深い入り江となっているから、船の停泊所としては最適だったろうと思われます。』とお書きです。

縄文海進を踏まえての想像だと思われます。

Wikによれば『縄文海進は、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。海面が今より2~3メートル高かったと言われ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされている。』と解説されています。
6000年前のピークが2~3mで、その後は引いているのだと思いますが、3世紀どうだったでしょう?。

<2島なのか?>
私は、対馬はレンタカーでさっと巡っただけですから、その地形について詳しくありませんが、当時も2島に分かれていたとは想像できません。
海水面が今より3m高かったとしても分かれていなかったと思います。

<入り江は停泊所として最適か?>
現在の対馬の西側の深い入り江(浅茅湾)も、それが東側に通じていれば別ですが、そうでなければあんな所に入るのは時間と距離の無駄です。

いずれにしても、2島に分かれていたかどうかがポイントだと思います。
ハナサンピン
2013年04月17日 06:13
>いずれにしても、2島に分かれていたかどうかがポイントだと思います。

憂鬱な日々さんのおっしゃるとおり、“その昔は海水が通っていただろうし”・・・は想像が先走りし過ぎました。“海は通じていなかった”。もちろん、“2島に分かれてもいなかった”、と訂正してお詫びいたします。

>「上県郡はそれほどの関心をよせる島ではなかった」という主張は当たらないように思います。

・・・対馬暖流が海峡を激しく流れる上県郡の西側の海岸線においては“対馬の西側の深い入り江(浅茅湾)”は、比較的停泊し易かった湾だったのではないでしょうか。

この発言は、倭人伝の意とするところと思っていて、
浅茅湾は北からくる船の寄港湾としてよく利用され、そこから一大國、末蘆国へと行ったり来たりのコースのイメージから生まれた「対海国」だった、と言えるのではないでしょうか。(このイメージ図を本ブログ中に掲載しておきます<図ー2>)
・・・それゆえ、中国にとっては上県郡は眼中にもなかったろうし、魏使は、下県郡(對海國)のみを通って行ったのだ・・・、と考えています。

これらの想像が事実であることを裏付ける記事が倭人伝自身のなかで示されています。

つぎへ・・・。



ハナサンピン
2013年04月17日 06:47
“始度一海千余里至對海國...又南渡一海千余里名曰瀚海至一大國.....”・・、のように對海國と一大國の間に「瀚海」が出てきます。

上記原文のように、前コメントコーナーで書いた“「対海国」は中国側から名づけられた「翰海」に対する「国名」で、翰海に囲まれた島国としての認識の中から生まれた「対海国」”であった、という話をしました。

・・・であるから、対海国といえば、下県郡を指した国名で、現在で言う対馬、上下両方を指した国名ではありません、と(しかし、現在でも「對海國」を「対馬」と改定して上・下の県郡に分けられた概念を一まとめにして對海國の意味としていますが)。

私の「瀚海」に対するイメージは・・・・、(本ブログ<図ー2>のように)
韓半島南岸から見れば、目の前に対馬暖流の流れる海があります。その海、すなわち対馬暖流は川のように見えていたのか、それを「海」とは呼べなかったのでしょうか・・・、対馬の向こう側に見えている、「対馬」と「壱岐の島」の間の海を、(中国人が何時も目にしてきた黄海に似た海として)「瀚海」と呼んでいたのではないか。おそらく、対馬と壱岐の島の間の海が比較的平穏で波が静かで広い海として「瀚海」と名付けられたのかも知れません。
そして、その「瀚海」に取り囲まれた下県郡のみが「対海国」と名付けられたものと考えています。

>数字だけ見れば、それぞれの島の横幅と捉えたほうがすっきりしますし、一辺の長さだけで全体像を表現することはできないと思います。

この考え方は、「方○○里」の記述を無視した読み方と見えます。
上記の考え方で「方○○里」を読もうとすれば、「幅○○里」と示せば簡単に見えるのですが、どうしてそのように書かなかったのでしょうか。
憂鬱な日々
2013年04月17日 07:32
ハナサンピンさんは私の言いたいことをきちんと捉えてくださっているのかどうか・・・。
私の書き方が悪いのでしょうか?。

『数字だけ見れば、それぞれの島の横幅と捉えたほうがすっきりしますし、一辺の長さだけで全体像を表現することはできないと思います。』とは「ハナサンピンさんのような方の捉え方(と言うより古田説ですね)では、正方形かひし形に近い地形しか表現することが出来ない。方の捉え方が間違っているのではありませんか?。」と言うことです。

私の最初のコメントは、古田説では対馬のような細長い形を表現することが出来ないから 、4辺が400里の正方形に近い形の下県郡だけを通ったことにしなければならなかったのではないかという問いです。

「幅〇〇里」と書いていない理由を私に聞くのではなく、ハナサンピンさんたちの方の捉え方が間違ってはいなかったかどうかを再考してみてください。

先ずは、ハナサンピンさんが書いた「方」の図で、対馬全体(のような細長い地形)を表現する場合はどうするのかをお示しください。
憂鬱な日々
2013年04月17日 19:00
私は04/15のコメントで、塔の首遺跡を取り上げて『「上県郡はそれほどの関心をよせる島ではなかった」という主張は当たらないように思います。』と書きました。

04/17 06:13のハナサンピンさんのコメントでは、それに触れたかと思ったら、スルーしました。
弥生後期墓地があったということなのですから、ここはスルーしてはいけないでしょう?。

一方でそこでも、瀚海に対した国だから「対海国」と呼ぶのであり、それは下県郡だけを指すのだという推察を力説していますし、04/17 06:47のコメントでも、『“始度一海千余里至對海國...又南渡一海千余里名曰瀚海至一大國.....”・・、のように對海國と一大國の間に「瀚海」が出てきます。 』と同じことを述べています。
韓半島と対馬の間の海は流れが速くて海とは呼べなかったともお書きですが、本当にそうなのですか?。(Wikには毎秒50cmとの解説あり)

さて、私のは推論ではなく屁理屈かもしれませんが、ハナサンピンさんが提供してくれたことを基にして書いてみます。

「始度一海千余里至對海國」と、「海を渡って」と書いているではありませんか。正に海と呼んでいますよ。
しかも瀚海ではなく海です。

海に面しているのは上県郡側で、下県郡側は瀚海に面している。
したがって対海国と呼ぶのにふさわしいのは上県郡と言うことになります。
下県郡は「対海国」ではなく、呼ぶとすれば「対瀚国」です。

これに対しては、瀚海のほうは「名曰瀚海」となっている・・・いう反論になるのでしょうが(笑)。

いずれにしても「韓半島から海を渡っているし、その海に対しているのは上県郡です。」

まあ、以上のことは下県郡だけが対海国だというハナサンピンさんの主張に対する反論をしてみただけで、私は対海国は対馬全体だと捉えて良いと思います。
憂鬱な日々
2013年04月17日 20:01
対馬海流の流速について、Wikでは「流速は流軸付近で毎秒50cm程度である。」と解説しています。
時速に直すと1.8Km/hでしょうか。

鳴門海峡のは、同じくWikで「潮流は13~15km/hの速度で流れる。大潮の時には20km/hに達することもある。」とあります。
以前、大鳴門橋から見た鳴門海峡の潮流は、実際に川のようだと思いました。

一方で、対馬海流は1.8Km/hですから・・・。
ちなみに人が歩く速さは4Km/hくらいですよね。

対馬海流の流速について、韓半島~対馬間と、対馬~壱岐間の差がどれほどなのかは分かりません。

いろいろと書きましたが、2点についてご教授ください。
「(ハナサンピンさんは、魏の使いの旅が軍事的な意味合いもある探査の旅も兼ねているとおっしゃっているのに。)塔の首遺跡の存在を踏まえても、上県郡には関心が無かったことにして良いのか?。」「ハナサンピンさんが示した方の概念で細長い地形を表現する場合はどうすれば良いのか?。」についてです。
ハナサンピン
2013年04月18日 01:55
>「正方形かひし形に近い地形しか表現することが出来ない。方の捉え方が間違っているのではありませんか?。」ということです。

この場合の「方」は、手を加えればある程度四角に見える四辺形の一方向を指す言葉で、方×方はその面積の計算ができ、方+方はその四辺形の半周の距離を計算できます。方+方+方+方はその島の全周距離が求められます。このように、「方○○里」一辺を示すだけで、その島の面積、周囲の距離、対角線の距離等々地形に関する情報が一目で知ることができます。
これに比べ「島の横幅」と捉えると、パッと見の景観のみを表しているようで、島の地形等に関する情報をまったく知ることもできない表現となっています。
それに、「幅」と捉えるのであれば、原文にも「幅○○里」と書いたほうがより分かり易いはずです。

>対馬のような細長い形を表現することが出来ないから 、4辺が400里の正方形に近い形の下県郡だけを通ったことにしなければならなかったのではないかという問いです。

「対馬」ということになれば、対馬全体の地形やその面積、周囲の距離を示さなくてはなりません。
ところが、原文では「對海國」と記載されているのです。その「對海國」は「瀚海に対する」という意味の国名表記で、上下県郡全体を指す国名とはなっていません、ということは前のコメントで書いた通りです。

>先ずは、ハナサンピンさんが書いた「方」の図で、対馬全体(のような細長い地形)を表現する場合はどうするのかをお示しください。

こんな長い対馬を表すに、「方」の法則は使えません。四辺(あるいは二辺)の方向と距離を示して対馬の地形や面積、周囲の距離を求めるしかありません。

もうすこしの続きがあります。
ハナサンピン
2013年04月18日 07:32
それに・・・、「對海國」の場合は、「方四百里」となっていますから、今現在の対馬の長い方向の距離とあまりにもかけ離れすぎていて、「對海國」に相当しないことは明白に思えるのですが。

>ハナサンピンさんのコメントでは、それに触れたかと思ったら、スルーしました。
弥生後期墓地があったということなのですから、ここはスルーしてはいけないでしょう?。

上県郡には、弥生期から古墳時代にかけての遺跡が多くあることは、あるサイトで知りました。特に多いのは深い入り江の上県郡の水辺付近の領域にあった、ということらしい。「搭の首遺跡」を含めて、これら数多い遺跡の首長達が(中国に対して)どれくらいの影響を及ぼしていたかということでしょう。倭人伝にはその形跡すらも載っていません。

そして、この上下両県郡の土地は岩屑の多い地質で保湿性が悪く、海産物は別にして、陸地で生産される食料類が充分ではなかったようです。倭人伝でも記載されているように、北の国(韓国か)へ行ったり、南の国(一大國・末蘆国か)へ船で航行して食料品を買出しに往来していたことからして、(一大國の「原の辻遺跡」に較べて)どれほどの勢力を持ち得る王らしき存在があったのでしょうか、経済的にも軍事的にもあまり重要視されていなかった島だったかも知れません。

ところが、下県郡は違っています。北から来る人々にとって安全に停泊できる船着場が深い入り江の湾口が待っています。また、北から来る航行船の日程的にほど良い距離に寄港湾としての機能を有しています。これらの条件が航行上要衝の島として注目しなければならない存在になっていったということではないでしょうか。これらのことも容易に想像が付くところで、よって、中国の目には上県郡はどこかへ霞んでしまい、記憶の外に取り残されてしまったものとも考えられます。

つぎへ・・・。
憂鬱な日々
2013年04月18日 16:58
「つぎへ・・・。」となっていますが、もう結構です。
お世話様でした。

ハナサンピンさんは、近畿王朝説を、「壹」を「臺」に変えてまで(邪馬台国を)近畿に持っていこうとしているというように批判していらっしゃたと思います。

上のコメントを拝見すると、残念ながらハナサンピンさんの推論もそれと同じように思えます。
ハナサンピン
2013年04月19日 06:46
つぎへ・・・、が一歩遅くなりました。私の考えを理解していただけるかどうかは分かりませんが、一応ここに示させてもらいます。

>「始度一海千余里至對海國」と、「海を渡って」と書いているではありませんか。正に海と呼んでいますよ。
しかも瀚海ではなく海です。

字面としては、「海」と書くところでしょう。実際は川ではないわけだから。問題は、かれらのその「海」に対しての認識です。「瀚海」と「海」とに書き分けられているように別の認識をもって(狗邪韓国~對海國)間と(對海國~一大國)の間を航行して行ったものと考えられます。その別の認識とは?。それは海には流れがあり、その流れが急であったかどうかの差を見分けて、自分たちが何時も目にしている穏やかで広い海、黄海を思い描きながら「瀚海」と名付けたのでは、と思っているところです。

>対馬海流の流速について、Wikでは「流速は流軸付近で毎秒50cm程度である。」と解説しています。
時速に直すと1.8Km/hでしょうか。

これらの詳しい数字は、対馬暖流が航行上どれほど危険を伴う速さではない・・・、ということを立証するためのお示しと思うのですが、この数値が航行上どれ位の影響の及ぼしがあるのかは不勉強でよく分かりません。これから勉強し直して近々、本ブログにて論証いたしますので、ここは一応保留とさせていただきます。

ただし、私は、これまでは、日本書記における「蛭子の(北九州のある沿岸から)海流し」で韓半島の東側の沿岸に到着していた。あるいは、韓半島東海岸に船を浮かせれば、櫂もいらずに無動力でも否応なしに日本海沿岸に漂着することは対馬暖流のおかげだ。・・・、等の歴史の先例によって、対馬海流は航行上は誰でも気にすることなのかな、と思ってのことです。

つぎへ・・・。
ハナサンピン
2013年04月19日 07:09
また・・・、
私の経験によると秒速50cmの水の流れは(子供の体力だからそのように感じたのかも知れませんが)巨大な圧力を受けて侮れないような気がするのですが。・・・子供の頃(小学五年生)の話ですが、水深が膝っ小僧の上10cmくらいだったでしょうか、パンツが少し水で濡れるくらいの水位の川を渡るときのことです。足を取られてしまいそうになりながら必死で向こう岸めがけて両足を踏ん張り死を感じながら歩を進めていったときの記憶が蘇ってきます。足をとられてそのまま流されれば下流には深い淵があり、そこで溺れてしまえば死に至ります。そういう恐怖の実体験です。今思い返してみると、そのときの川の流れは偶然といえば妙ですが確かに、そう・・・秒速50cmくらいだったかな、と、オボロゲながらの感じですがそのように思っているところです。
・・・このような話も一応ここに添えておきます。

>対馬海流の流速について、韓半島~対馬間と、対馬~壱岐間の差がどれほどなのかは分かりません。

私も分かりません。
しかし、(邪韓国~對海國)間と(對海國~一大國)の間差があるから、「始度一海」と「瀚海」の別々の名付けとなった、ことだと思っています。
これからのことを踏まえて、研究課題としてしっかり勉強させていただくことにします。
ハナサンピン
2013年04月24日 06:30
憂鬱な日々さんの疑問点“対馬海流の流速について、韓半島~対馬間と、対馬~壱岐間の差がどれほどなのかは分かりません”・・・の件について気象庁、海上保安庁第七管区、対馬市文化財課、在地の民間伝承家等々にお訊ねしたところ、“過去の経緯については存じ上げないが、今現在の西水道と東水道の海水流速にそれほど差異は感じられない”というお答えとなりました。よって今回は、この結論をもって、ハナサンピン主張の“(邪韓国~對海國)間と(對海國~一大國)の間の流速の差から、「始度一海」と「瀚海」の別々の名付け”の論証は、ただ単なる私個人の邪推と判断、その結果、撤回の憂き目に至ることにあいなりました。この件については、憂鬱な日々さんには多大なご迷惑をお掛けしましたこと申し訳なく思っている次第です。

しかし、今ページの図絵に関しては、翰苑 (かんえん)の記事、“「境は[魚是]壑(ていがく)に連なり、地は鼇波に接す。南、倭人に届き。”からくる「鼇波」は日本海である。そして、対馬は、“島の向こうには馬韓”があることによって日本側から名付けられた島の名前で、そして、その裏返しの、對海國は“島(対馬)の向こうには「瀚海」がある”からくる、中国側の名付けということで、瀚海は(「対馬」~「壱岐」)の海を指す名前であることには変わりがないことにして、今ページ図絵の本旨そのままで後を続けさせていただくことにしました。

いろいろご迷惑をお掛けしましたが・・・、
今後のご配慮よろしくおねがい申し上げる次第です。
ハナサンピン
2013年06月26日 12:05
“西水道と東水道の海水流速にそれほど差異は感じられない”ということで、(本ブログ<図ー2>)は、取り消しとさせていただきます。

しかし、前コメントでお示しのように・・・、
>><入り江は停泊所として最適か?>
現在の対馬の西側の深い入り江(浅茅湾)も、それが東側に通じていれば別ですが、そうでなければあんな所に入るのは時間と距離の無駄です。

この件については、司馬遼太郎の『街道を行く13』(壱岐・対馬「溺谷」の項に)に次のような文章があります。

・・・半島が錯綜して複雑な水路を構成する浅生湾が広がっている。いわゆる溺谷(おぼれだに)である。
道路は溺れぞこねの山(半島?)を縫って走っているが、地形が糸鋸(いとのこ)のようになりながら、ちぎれてそれぞれが島になってしまうということがない。このためむかし朝鮮からきた船は対馬の中(なか)どころで西北へ口をあけている浅生湾へ入るが、東南海岸の厳原の・・・省略・・・、と載っています。

どれだけ昔の話なのかはよく分からないが、司馬遼太郎も“朝鮮からきた船は対馬の中(なか)どころで西北へ口をあけている浅生湾へ入る”と認識している。

ハナサンピンもこの認識と同様、また、浅生湾は対馬の中でも対馬海流の流れに面した沿岸よりも比較的波も穏やか。船の停泊所としてはもってこい岸であるということを信じて、これからも倭人伝を理解していくところですが・・・。

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