閑話休題ー嘘だらけの「さかのぼり日本史」ー②

【推古紀】
〔1〕、(推古十五年=607年に当てる)小野妹子派遣記事。
     (日本書紀本文には、“秋七戊申朔庚戌、大礼小野妹子を
      大唐〔もろこし〕に遣わす。鞍作福利を以て通事とす”、と
      なっているから、小野妹子を派遣した国は、当然「唐」、と
      いうことになります)    

〔2〕、(推古十六年=608年に当てる)夏四月、小野臣妹子、大唐
    より至る。唐国、妹子臣を号して蘇因高と曰ふ。即ち大唐の
    使人裴世清・下客十二人、妹子臣に従いて筑紫に至る。難
    波吉雄成を遣わして、大唐の客、裴世清を召す。
(*この“当てる”と書いているのは、日本書記編者がおよそ百年前
の伝承を記録する際、故意かどうかはわかりませんが、年次のと
り違い記載をしてしまった可能性を考えての表現です。これにつ
いては後述します・・・後述①)

【俀国伝】
〔イ〕、大業三年(607)其の王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。

〔ロ〕、明年(608)、上(煬帝)、文林郎裴清を遣わして俀国に使せ
    しむ。
(*中国の王朝には、「起居注」といって、代々の皇帝の起居・言動
 を記録する史官が常在するので、年次の取り違いや間違いが発
 生することはありません。・・・このことは、日本書紀が天武天皇
 の命を受けて、天武の四代後、すなわち元正〔715~723〕の治
 世に百年前のことを綴った史書ですから、同時代を記した隋書と
 は決定的な真実度の差異があるのは当然です・・・後述②)

上記、【推古紀】と【俀国伝】の両書の食い違いを分かりやすく説明
するに、よい論述案が見付かりました。

それは・・・、
両書の記述をつぎのように簡単にまとめてみること分かるのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。(イ)                                  
。 【推古紀】                            
。〔1〕607年・・・、小野妹子――ー→(日本書記本文によれば)唐           
。〔2〕608年・・・、裴世清(唐)――→推古王朝
。 【俀国伝】                        
。〔イ〕607年・・・、多利思北孤――→隋            
。〔ロ〕608年・・・、裴世清(隋)――→俀国王朝
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

更に、もっと、要約すると・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ロ)
 【推古紀】
(607)推古―――――→唐
(608)唐――――――→推古王朝
 【俀国伝】
(607)多利思北孤――→隋
(608)隋――――――→俀国王朝
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また、お互いやったり取ったりの関係・・・で、要約して・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ハ)
【推古紀】
(607)・(608) 推古←――→唐
 【俀国伝】
(607)・(608) 俀国←――→隋 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・、と、このように、推古と「唐」、そして俀国王朝(多利思北孤)
は「隋」と、互いに行ったり来たりの形で、双方の相関関係図が
ごときを思い描くことが可能です。

この最後の(ハ)の簡潔形を見れば、どうでしょう?・・・、
裴世清が仲立ちとなっているようですが・・・、両書、行き来しあ
う国は全く違っています。
このことからしても、両書を同一視することの的外れを曝け出し
ているようで、観ているこちら側も、恥ずかしさを覚え、目を手で
被う場面も多くありました。

【上記〔2〕の一文の中に、「大唐」・「唐国」・「大唐」・「大唐」・・・・、
と、「唐」という国名が四回も記載されているように・・、中国から
派遣された使者、あるいは日本から派遣した使者は、隋ではな
く、明らかに「唐」という国名であったことを根拠にした省略形で
す。
また推古紀全体でも・・、この(607年)・(608年)の他にも・・・、
(609年)・(613年)・(614年)・(622年に三回)と、何回も中
国に使者を送っていますが、その全てが「唐」・「唐国」・「大唐」、
という遣使名で記載されている。このことからしても、上記の相
関関係表なるものが筋の通ったものと受け止めてもらえると思
っています・・・が。】

この関係表からひとまずの結論が出てきます。

(『隋書』と『日本書記』本文を詳細に調べ上げ)上記に示したよ
うに凝縮した形で表すと、両書を誰が見ても一国間同士の交渉
記事とするは、適わぬ願い・・・、これをゴリ押しするは・・・、当に
独り善がりの論証、ということになります・・・と。

ここで、チョッと一言・・・、
・・・わたしは、日本書紀「岩波文庫」を読む時、一つの法則を念
頭に読むことにしています。・・・というのは、この本は、右ページ
が本文で、左ページが訳注形式になっています。
ところが、その訳注のページは、膨大な情報がギッシリ詰まって
いて、コト細かに解説されているのです。
そこで、ついつい左ページを頼りにしながら読み進めてしまい、
印象に残るのは、この訳注に記された解説事項ばかりというこ
とになってしまいます。
ところが、その訳注には、改定・変更の魔の手が潜んでいるの
です。
その魔の手とは・・・、、
かれら特有の、近畿王朝一元主義で塗り固められた注釈となっ
ているゆえ・・・、近畿王家以外の王国の存在を漂わせる名称は
全て近畿王家所縁(ゆかり)の名前に置き換えられ、われわれを
近畿王朝一元論の迷路に誘い込もうと待っている手です。

・・・よって、その注釈に従って読み進めて行くと、とんでもない方
向に彷徨い、解読が困難に陥ってしまう結果となりますので・・・、
最近は、まず!、本文をシッカリ読んでから・・・、ということにして
います。

・・・予めの御注意まで・・・。

ところが、
世の巷に並ぶ古代を語る歴史本の多くも、岩波文庫本をお手本
としながら、しかも、その訳注に主眼を注ぎながら解説していま
す。・・・、云わば、岩波文庫の子孫版の林の中にいるようなもの
です。

・・・、というように、われわれが彼等の魔の手から逃れることは非
常に難しいようですが、注釈に目を向けなければ大丈夫と思って
いるところです。
・・・かく云う私も、最初の頃はその方法で解釈、納得してきたの
でしたが・・・。

ところで・・・、本題に戻って・・・、

これらの諸問題をなんの解決することもなく無視して、「さかの
ぼり日本史」は、【推古紀】と【俀国伝】の双方を重ね合わせた上、
既成の概念と考えているのでしょうか、両書を同一国同士の国
交記事と看做し、推古王朝の発展史を物語っている。

疑問が多い語り口(くち)です・・・。

これまで、この双方の交渉記事が同一であることを証明した人が
何処に居たというのでしょうか。わたしは、いまだかって、そのよ
うな文献にも、そのような人にも出会ったことがありません(古田
氏を除いては)。

たまたまですが、このトンチンカンの解説している時、テレビ画面
の大写しの画像の中のスポットライトを浴びていた語句の、その
すぐ隣の行に、目を凝らしてみなければ見えないような薄暗いと
ころにでしたが、ハッキリと解説者のウソを暴くに都合の良い文面
が浮かび上がっているのに目が留まったのです。

それが下図です。右側の図は、その語句が含まれているページ
の全体です。
画像
画像

その薄暗いところに見えた文面とは・・・、

『隋書』(俀国伝)の一節・・・、

“・・・天未明時出聴政跏趺坐日出便停理務云委我弟・・・”の文章
が、(“太無義理” の右隣の行に)見えたのです。
これは、(俀国)の王「多利思北孤」が「隋」に宛てた、自著名入りの
国書に記された、兄弟統治の痕跡を留めるかの有名な文章です。

(そして、この兄弟統治の形態は卑弥呼の時代にも遡りうる政治
 形態であったことは後ほど示すことにしますが・・・後述③)。
 

この文の読み下しは、つぎのようになります。
“・・・天未明時(天いまだ明けざる時)出聴政(い出でてまつりごと
 を聴く)跏趺坐(その姿は、カフして座し)日出便停理務云(日いず  
 れば、すなわちその理務を停止して云う)委我弟(我が弟にゆだ
 ねん)・・・と。・・・”

・・・と、まさに、あの卑弥呼と同じ“兄弟統治”の姿を彷彿とさせる
文章です。

兄が、真夜中、呪文を唱え、自身が神の「憑依(よりしろ)」となっ
て、託宣を告げる「王」となり、そして、朝、夜が明ければ即、弟に
その実務を委ねる・・・、という、すなわち、夜は「兄」が神となり翌
朝には「弟」が現実の実務を司る形の・・・、と、これは、完全な兄
弟統治の姿を映し出す一節です。

こんな姿を、推古から連想できるでしょうか。
そして、“跏趺坐”す、・・・、という姿、すなわち、座禅の足組みの
姿で政(まつりごと)を行う、あの聖徳太子から想像できるでしょう
か。
日本書紀には、このような伝承も物語もコレッポチも記されてはい
ないのです。

そもそもが、“太無義理”なる四文字を引っ張り出して近畿王朝発
展史に当てて論説するには何か明晰な根拠があってのことでしょ
うが、それについても何も触れずに、我々一億万民が旧知のごと
く、この何時崩れるかも知れない脆い土台の上に立って淡々と自
説を語っています。

一般的な話として、この語句を引用しての話であれば、どこにでも
当てはまる熟語と思うのですが、この番組は、それとは違っていて、
推古王朝に限定しているかのような切り口で自信タップリに話を進
めている。
そして、この熟語“太無義理”も、「俀国」の政治形態“聴政跏趺坐”
の姿を“政治の理屈に疎い”、と蔑視表現しているのであるから・・、
この政治形態が近畿王家にも存在していたかどうかも論証しなけ
ればなりません。
しかし、それも論証せずして、弁じている。

しかも、この話の結末も、何を目的として論説していたかがハッキ
リとしない抽象的で話に終始していました。

我々は考えます・・・、双方の交渉記述は、別の次元の別のタイミン
グの、全然、別の時代の事件であったのではないか・・・と。
(日本書記側の年次のズレ記載については、後に論証します。
 ・・・後述①と同じ意味の内容となります)。

この番組の、近畿王朝の発展史の貴重な史料として、「俀国伝」中
の数多い語句の中から拾い上げた語句、“太無義理”の前後を追
ってゆくと、この番組の論説者が、より一層、その矛盾の広がる輪
の中で解説していたかがハッキリ分かっていくことになると思いま
す。

この語句は『隋書』(俀国伝)の中から抜き出した文章史料です。は
たして、この語句が近畿王朝に向けられた蔑視表現であったかど
うか。 この一語句単独では読み取れないはずです。

しかも、この「太無義理」の語句の周りは、近畿王朝とは無縁の文
面が取り巻いています。

“【開王二十年、俀王あり。姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥
と号す。使を遣わして闕に詣る。】”

この、俀王の居す国は・・・。

“【俀国は百済・新羅の東南に在り、水陸三千里、大海の中に於い
 て、山島に依って居る。魏の時、訳を中国に通ずるもの三十余国、
 皆自ら王と称す。・・其の地勢は東高くして西下り、邪馬堆に都す、
 即ち魏志の所謂邪馬臺なり。
 古より云う、「楽浪郡境及び帯方郡を去ること並びに一万二千里
 にして、会稽の東に在り、儋耳に相近し」と。】”

と、ここでは、魏志、後漢書の記述を引用して、俀国の地理的位置を
示しています。すなわち、後漢から魏、そして俀国へと一貫して続い
てきた同じ位置にある国であることをも述べようとしているのです。

そして・・・、
“【魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず。】”

また、魏の後の「倭の五王」も、多利思北孤の、俀国と同じ国である
ことを述べ・・・、

そして・・・、
“【漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と称す。安帝の
 時、又使を遣わして朝貢す。之を俀奴国と謂う。】”
・・・、と、魏、以前に遡り・・・、中国王朝として特筆すべき 《金印授
受国=「委奴国」》国として、今(隋の時代)で謂う “俀奴国”、であっ
たとの来歴をのべている。

この、俀奴国の(「委奴国」との差し替え)表現は、例の金印に刻銘さ
れた“漢委奴国王”の語句中の“【委奴】”(匈奴と対極にある国の名
前)と同じ国であることを表していて、「光武」の時代と「安帝」の時代、
すなわち、57年、107年の、それぞれの年に、倭国から使者が派
遣された時の “特別の国” と同一であったことをも述べている特筆
文です。

(注・・・、この「俀奴国」なる国名表現から、以前、の話の中で出てき
     た、例の “漢委奴国王” の正しい読み方を側面から立証
     できることに気がついたのです。
          
     前にも書きましたが・・・、
     「俀国」という国名は、多利思北孤が倭国を尊大に表した表
     現で・・・、「倭」を大きく見せるため→「大倭(タイイ)」と手直
     しして→「大倭(タ・イ)国」→「俀(タ・イ)国」→「俀国」と隋王朝
     によって音訓を、卑字に置き換え【俀奴国】と名付けたものと     
     考えることができます。

     定説では、【委奴】の二文字を「委」と「奴」に分け、“漢委奴国
     王”の語句を“漢の委の奴の国王”、と三段論法で読んでいま
     す。この方式で【俀奴】や【匈奴】にあてはめて読んで行くとど
     のようになるでしょうか?。
     “俀の;奴(ナ)国” 、とでも読めましょうか。
     “俀の;奴(ナ)国” というと、何処の国を指した名前となるの
     でしょうか。
     “俀国”に“奴(ナ)国”が存在していた・・、というのでしょうか。
     隋書には、「奴(ナ)国」は登場しません。
     
     どうも、しっくりと来ない呼び方で、意味も通じません。
 
     ここは、やはり、「委奴国」を「い(ウィ)ど(ヌ)国」、すなわち「い
     ど国・ウィど国・いヌ国・ウィヌ国」・・・、と読むべきものと思って
     います。

・・・、ついでに、といったら何ですが、『隋書((俀国伝)』のこの部分
の前の行文をも紹介しておきます。

“【・・・開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
   上令所訪其風俗使者云】”・・・と。 そして上記に示した有名な
   “兄弟統治・・・の文章へとつながってゆきます。

一応、この文章を読み下しますと・・・、
“・・・開皇二十年俀王 姓阿毎(姓は、あめ〔天〕)字(あざなは)多
   利思北孤(タリシホコ)號阿輩雞彌(号してオホキミ)が遣使詣   
   闕(使を遣わして「闕(天子を真近に見える宮殿内)」に至る
   ・・・中略・・・天未明時出聴政跏趺坐日出便停理務云委我
   弟・・・、へとつながる文面です。

ここには・・・、
問題の、阿輩雞彌(アヘキミ・オホキミ・オオキミ「すなわち、王」)と
號(号)す、「多利思北孤」なる人物名が現れています。

従来説は、この名前の扱いに困り、推古の執政であった聖徳太子
(足彦?・タラシヒコ?)に当てて・・・、
日本書紀、推古紀十五年(607)、十六年(608)の記事と『隋書』
(俀国伝)、大業三年(607)、大業四年(608)の記事とを重ね合わ
せる切り札として使ってきた。

そして、その文面は、決定的とも言える文章へと繋がって行きます。

次は、この決定的な文章と・・・、
この、「多利思北孤」なる人物名のもつ意義、推古紀と俀国伝を重ね
合わせて読む論法の間違いの説明と、後述①、②、③、についても
これから明らかにしてゆきます。

                      次ページもよろしく・・・、では。


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