謎解旅行ー13 確かな道(「隋書」と「日本書紀」)

 前ページでは、
  ①、タイ国は隋を交渉相手国としていた。
  ②、推古朝は、隋とではなく、唐、大唐を交渉相手国と
    していた。
  ③、「戒塗」は、近畿王朝へ足をのばすための “旅行
    の準備” をする、ではなく、筑紫からそのまま、唐
    へ帰るための “旅行の準備” であった。
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ここで、少々私の反省文を、・・・・
     ・・・・・(謎解旅行ー11P)で【朝命既に達せり、請
      う即ち塗を戒めよ】の文章を、私自身の勝手な解
     釈で(朝廷の命令を伝えた後、“近畿へ行く旅の
     準備をして置け” と命令に近い言葉で、と、・・・
           で・・・こんなことは有る筈がありません。
     冷静に考えてみれば、当たり前のことでした。・・・    
    はずかしい次第でした。・・・・
     交渉相手国にやって来て、“請う即ち戒塗”と、命
     令する、・・なんていうことは出来る筈はなかった。・
      命令形として書くのであれば、文の構造上、
       (請う)を省いて “即ち塗を戒めよ” と書くとこ
      ろですよね。・・・というところでした。
     ・・・結論を急ぐあまり、勢いで文章を書いてしまい
      ました。・・・反省しています。・・・ 
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     
  以上の三点を基に、「隋書」と「日本書紀」を照らし合わ
 せて、もう一回練り直し、もうすこし詳しく論述していきま
 す。

  「隋書」と「日本書紀」を冷静に比較するとき、同一王朝
 間の国交記事として考えると、矛盾があり、納得出来な
 いところが多くあります。・・・近畿王朝一元論を唱えてい
 る人達の間では、「隋書・俀(タイ);国伝」の中のタイ王と
 推古を同一王朝の王と考えていて、「俀国伝」と「推古
 紀」を同一期の王朝の交渉記事として、推古と隋との国
 家間交渉記事として扱っています。ところが推古紀には
 唐・大唐、の国名しか載っていない筈なのに。従来の解
 説者は、遣隋使と遣唐使をゴチャ混ぜにして、曖昧とさ
 せ、推古紀を物語っています。
  かく言う私も、これと同じ道に乗っかってしまい、安易な
 結論を早々と下してしまった。反省しtます。
  これから、その非なるところを次に示していきます。

 A、『隋書』俀(タイ)国伝の国交記事中、筆頭に当る
   「開王二十年(600)」のタイ国使派遣記事が、推古
    紀には全く存在していない。・・・、と、これが、一点。

   「隋書・俀(タイ);国伝」(開王二十年)
  ・・・「俀(タイ)王あり、姓は阿毎。字(あざな)は多利
   思北孤、亜輩キ弥と号す。使を遣わして闕に詣(いた)
   る。・・・王の妻は(キ弥)と号す。後宮に女六、七百人
   有り。太子を名づけて利歌弥多弗利と為す」・・・。
    ・・・この文中の「利歌弥多弗利」なる太子の名は(日
    本書記)には登場していなく、しかもこの記事は推古
    紀には全く載ってはいないのでした。

  そして、推古王朝が隋との初めての交渉記事が推古紀に
  は載っていない。・・・、これは一体どうしたことでしょうか、
  記念すべき最初の「隋」との国家間交渉であれば、これ見
  よがしに 「推古紀」に載せる筈です。・・・それが載っては
  いない。
   【近畿王朝には「隋」との交渉伝承は無かった】
    ・・・・・、ということになり、
  開王二十年(600)の記事を推古の交渉記事として扱うに
  は矛盾が多すぎて許されるものではありません。
  
     【ちなみに、ですが、上記(俀(タイ);国伝)中の
      「利歌弥多弗利」は、「利・カミタフ(の)利」と(古田
      氏は)訓み、実際、九州の福岡大学近辺に「上搭
      (カミトウ)」「下搭(シモトウ)」の字名の遣存を(古
      田氏が)、発見されたそうです。】
   
 B、  大業三年、四年の場合は、両書は一致しているか
    のように見えますが、はたしてそうでしょうか。
   【タイ国伝】
  1-① 大業三年(607)、其の王多利思北孤、使を遣わ
       して朝貢す。
  1-② 明年(608)、上(煬帝)、文林郎裴清を遣わして
       タイ国に使せしむ。
   【推古紀】
  2-① 推古十五年(=607に当てて)、小野妹子派遣。
  2-② 推古十六年(=608に当てて)、夏四月、小野妹
      子、大唐より至る。唐国、妹子臣を号してて蘇因高
      と曰う。即ち大唐の使人裴世清・下客十二人、妹
      子臣に従ひて筑紫に至る。難波吉士雄成(きしお
      なり)を遣はして、大唐の客、裴世清を召す。
    
   上記文を冷静に対比すると、矛盾が見えてきます。
  *「(1-①)と(2-①)」を比べると、
    「多利思北孤」と「推古」は、一致しているでしょうか?
    一致してはいません。日本書紀には「多利思北孤」の
   名は出てきません。
  *「(1-②)と(2-②)」を比べると、
    「推古」は「隋(煬帝)」との、国家間交渉はしていませ
    ん。推古は唐、大唐と交渉していた。

  ・・と、簡単な対比でもその矛盾が浮き彫りされてきます。

  大業三年(607)と大業四年(608)の、年表上の一致に
  目を奪われていては真実はみえてきません。上記のように
  対比すれば、裴世清が基軸となっていることを除けば、一
  目瞭然お互いソッポを向いた文の内容となっているのがわ
  かります。

   ・・・では何故両書に裴世清なる人物が登場していたの
  でしょうか?(この点については後程明らかにします)。

   そしてさらに、
  
 C、 両書における国書の有りや無しかの問題です。

  国書の有無問題は次ページにて・・・ではまた。 

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