卑弥呼ー36 レッドクリュフ

 「赤壁の戦」、現今流行(はやり)の「レッドクリュフ」
  中国、後漢末の208年、赤壁で「呉」の孫権と「蜀」の劉備
 が「魏」の曹操の大軍を破った戦です。これより天下三分・三
 国鼎立の形勢が成立したのです。

 この戦の中で「短里」における描写があります。
  
 北軍(魏の曹操)を去る二里余、同時発火す。・・(『江表伝』)

 古田氏は「古代は輝いていた―Ⅰ」のなかで、のべています。
  揚子江中流域、武漢近辺の「赤壁の戦」の描写です。

 《呉の周瑜(しゅうゆ)の武将、黄蓋(こうがい)が策を建て、
 十艘のもやい舟(互いに繋ぎとめた舟)を率いて「中江」(真ん
 中あたり)にでた。さらに北岸(魏軍側)に近ずき、偽って一斉
 に「降伏する」と大叫した。そしてさらに北岸に近ずき、
  『北を去る二里余』の地点で、兵は小舟で去り、無人火船を
 北岸の、鎖でつなぎ合っていた魏の大船団に突っ込ませ、
 大勝を博した。
 
 現地(赤壁)の川幅は4~500m(人民中国<日文叛>雑誌
 社、北京、による)である。》

  対岸(曹操軍の待ち構えていた岸)の手前「二里余」まで近
 寄ったことになるから、
 【短里】の場合、・・・「二里余」は(75・6x2で)150~160m
  と、なり、呉の黄蓋側からは、(500-150)で約350m行
 ったこととなり、戦の描写として成立しています。
 【長里】の場合、「二里余」となると 435x2≒900mと、なり
 川幅(約500m)を悠に超えてしまっています。これでは戦の
 描写の画面に収まりきれず、遠くへ消え去ってしまうことにな
 ります。
  ゆえに「長里」では「妥当」しないことがわかります。

 赤壁の戦(レッドクリュフ)は「短里」で描かれていて、「長里」
 ではなかったということです。


レッドクリュフ を書いた翌々日(H21・4・15日)に、
  その『レッドクリュフ』パートⅠをみました。

《河田さん、すみませんでした、DⅤD長くにお借りしまして》。

 両軍の対峙している画面を見ると、やはり約500mの距離
 のようでした。
しかし、まだパートⅡを見ていないので・・・・・・・
   パートⅡの戦闘シーンを見ればもっとはっきするかもしれ
  ません。・・・・・・・

 
 
 

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