卑弥呼ー35 周髀算経と遍歴

 里程の歴史の繰り返しについて。
 
 『周髀算経』(天文算術書)、この書の冒頭は周公と
  殷高(殷人)との天文に関する対話なんだそうです。
 紀元前1122年(前後100年)頃の「星の運行」が語られて
 いるという(『周髀算経』能田忠亮)。周の始め頃(BC1060)
 既に、天文算術書なるものの実体が存在していた、ということ
 です。エジプトでは、BC3000頃、あのピラミッド作られていた
 というのであるから、どれほど驚くものでもないかもしれません
 、おそらくエジプトにも、(天文算術書)なるものがあっても、
 おかしくはないでしょうね。
 
 このことから 
  殷の時代から、周の時代(周公)より「短里」が、使用されて
 いたということがわかります。
  そして、
  ・・・「6尺、歩と為す。」  ・・・・・(『史記』秦始皇本紀)・・・
 これは始皇帝が周代の諸制度を一新したことを記した一文の
 中の一句です。
  秦の始皇帝は「五行説」に立ち、「周」の火徳に対し、「秦」を
 水徳とした。色は「黒」、数は「六」に当たる、と称し、その立場
 からの改新を列挙した。その一環が上記の一句だったのです。
  たぶん「六」という数字に縁起を担いだのでしょう、・・・
  ・・・「一里=300歩=1800尺=約435メートル」、・・・・・・
 始皇帝が「短里」を廃止し、「長里」を定めたということなのです。
  この「長里」が「漢」に引き継がれて、・・・・・
 三国志(魏)の時代に入って復古(周朝に)した。
  魏朝は「秦」・「漢」の新法を批判し、「周」以前の古法を賛美
 して、古法に復帰したのです。そしてその「魏」の「復古主義」を
 「西晋朝」も踏襲したのです。
  
  「陛下(西晋の第一代、武帝)、古聖に邁蹤(まいしょう)し、蕩
 然(とうぜん)として忌(い)む無し。」
  
  ここに「古聖」といっているのは、「夏」の「咎(こう)ヨウ」と周王
 朝の「周公」を指しています。すなわち、周以前の聖人の作った
 制度を「邁蹤(まいしょう)」(古人の跡をふみ行うこと)することが、
 魏、西晋朝の厳格なる継承方針であったということです。

  したがって魏・西晋王朝は短里(一里=75~76m)の里程
 記事でなければならないのです。
 
 陳寿は、もと「蜀」の朝廷人であった、蜀の「劉備」は漢を奉じて
 中国をつくり直そうと、立ち上がったのであるから、当然漢の新
 法の「長里」の存在も知っていた。蜀が滅び、陳寿は敵国であっ
 た魏の朝廷人として再び召抱えられたのである。そして、魏の
 復古、すなわち二千有余年前の いにしえ の歴史に触れて
 しまったのです。長い歴史の最先端に立ち、「古聖に邁蹤」する
 意気に燃えたのだろう、とおもいます。
  
 当然魏・西晋は「短里」でなければなりません。
 
 内藤湖南も白鳥倉吉も陳寿の(古法の「短里」)も歴史観をも
 無視して(知っていても恣意的に)「長里」のものさしで三国志
 を測っているのです。
  そしてその西晋も、漢を奉じる匈奴の劉曜によって滅ぼされ、
 また、漢の長里となったのです。
  ことごとさように、「夏、殷、周」の古法と「秦、漢」の新法の
 争いによって滅ぼし滅ぼされの歴史の波に翻弄され、里単位
 は、変遷してきたのです。・・・・・そして「唐」もまた「長里」をそ
 のまま引継ぎ、・・・・・・現在へと・・・・・変遷の歴史があったと
 いうことなのです。
 
  掻い摘んで、ザッ、と歴史の流れをかきましたが、時代に
 よって「里の単位」(換算基準)は変わってゆくのだと思います。

  では又・・・・・

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