卑弥呼ー33 Aべ氏に応えて

 Aべ氏の質問に応えてみたいとおもいます。
  (私の力量ではすこし、荷が重いようですが・・・)
 一、歩の長さについて、・・・
   古田氏は発見しました、「三国志を貫く短里」を、・・・・
   そして三国志の記述は「正確この上ない」ことをも・・・

   もうすこし、里程記事について詳しく書いてみます。
  「古代は輝いていた」の中でのべています・・・・・・・
   「韓地」は朝鮮半島の東西幅を、その東西幅としてい
  る、しかも東西とも海を以って限りと為す・・といっている
  のであるから、その実距離は明晰といえます。
   その東西幅が4000里、300km~360kmというこ
  とであるから、一里は75~90mということになります。
 この上に「一大国(壱岐の島)、対海国(対馬、下半分)」
 の方400里、方300里と、実地距離から、一里は75m
  を割り出し、現在のソウルから倭国の首都までの距離、
 12000里は略(ほぼ)正確であることを、発見されたの
 です。
   最後に一里は300歩であるから、一歩は25cmとなり
  ました。三国志時代は足の長さを以って一歩と、してい
  たようです。
  
二、他国への行路記事の ありやなしや について、
古田氏は「古代は輝いていた」のなかで、三国志の
   夷蛮伝の中の、他の「里程」記事を10個(三国志の
   中の総計)挙げて います。

   ①、 建安十一年(206)太祖(魏の曹操)、自らム頓(
      烏丸の中心の王者)を柳城に征し、潜軍詭道、未だ
      至らざること、百余里、虜乃(すなわ)ち覚(さと)る。
                           ・・・・・(烏丸伝)
   ②、 夫余は長城の北に在り。玄菟を去ること 千里。
                           ・・・・・(夫余伝)
   ③、 (夫余)方、二千里なる可し。   ・・・・・(夫余伝)
   ④、 高句麗は遼東の東、千里に在り。・・・・(高句麗伝)
   ⑤、 (高句麗)方、二千里なる可し。 ・・・・・「高句麗伝)
   ⑥、 (東沃沮)其の地形、東北狭く、西南長く、千里なる
       可し。                ・・・・(東沃沮伝)
   ⑦、 ・・・ハク布・魚・塩、海中植物は、千里担負して之を
      致す。                ・・・・・(東沃沮伝)
   ⑧、 (北沃沮)南沃沮を去る、八百余里。・・(東沃沮伝)
   ⑨、 ユウ婁は、夫余の東北、千余里に在り。
                          ・・・・・(ユウ婁伝)
                        
   ⑩、 韓は帯方の南に在り。東西、海を以って限りと為し、
      南倭と接す。方、四千里なる可し。   ・・・・(韓伝)

  以上。 これに倭人伝を加えて夷蛮伝の里程記事が
  載っている。
    夷蛮伝の中においては、倭人伝は突出して多くの里程
  記事(と、方角)を詳細に連ねて、・・・南、邪馬壹国に至る、
  女王の都する所。・・・ 

  東夷伝序文の最後に次のように述べられています。
・・・・・故に其の国を撰次して、其の同異を列し、以って前史の
  未だ備えざる所に接せしむ。・・・・・と。
   すなわち、「史記」や「漢書」に書かれていないものの一つ
  が、「倭国の首都への里程記事」だったというのである。
  
  このように倭人伝の里程記事は東夷伝の眼目であったの
  です。
   時の「天子」も納得させ、魏、西晋朝廷人をも納得させうる
  史書でなければならない。いいかげんなものではない、と思
  われます。
 三、換算基準について、
  次のページにて・・・・・

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この記事へのコメント

Aべ
2009年04月09日 11:59
愚問にお応えいただき、恐縮です。
三国志には他地域の記述もあるんですね。
ありがとうございました。

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