卑弥呼ー32 卑弥呼の冢(ちょう)

 卑弥呼の墓
  倭人伝に
 
 「卑弥呼以て死し、大いに冢(ちょう)を作る、径百余歩」
 
 従来の邪馬台国論者は卑弥呼の墓の長さは150メー
 トルもある巨大な古墳(この説のほかにも、7,80メート
 ル説、180メートル説もある)として、今現在でも(当時
 としては大きな墓として)周知されているのです。
  それ故、巨大な古墳の多くは近畿にある、として卑弥
 呼の古墳も当然近畿になければならない、として卑弥
 呼は 近畿 に居たと力説し(学者さんの多くが)、未だ
 決定的な物証も的を得た論証もなく、近畿説を定説化
 しようとしているのです。

  上記倭人伝の文中の、「径百余歩」について。
 この「歩」は「里」の基礎の単位なのです。
  
  右は、三百歩、里と為す。    ・・・〈殻梁、宣、十五〉
  周制、三百歩、里と為す。   ・・・〈孔子家語、王言解〉

  このように、「三百歩」が「一里」となっています。そして
 この「一里」が「三国志」の中では、約「75~90メートル」
 を示す実定単位なのです。すると、「歩」は約25cm~30
 cm、ということになります。前々々ページでのべたように
 百里=7・5kmが測定されましたので、この計算から述
 べれば「百歩=25メートル」ということになり、「百余歩」と
 いった場合は、30m前後となります。
  これを、従来説では「漢・唐の里」単位で対応したため、
 五倍の150mとなってしまったのです。
 これを「百歩=25m、からすると。百余歩が30mとなり、
 近畿の(箸墓)の如きには、当てはめられない。また、三
 角縁神獣鏡類32面が出たことで注目された大塚山古墳
 も、卑弥呼の墓とは規模を異にするので、これも卑弥呼の
 墓とは考えられない。やはり、漢式鏡150面の内の130
 面出土した領域の中に卑弥呼の墓を探し求めなければ
 ならないのです。

 「大いに冢を作る」について
  これは「大作>冢」(大いに冢を作る)、であって「作(二)
 大冢(一)」(大いなる冢を作る)ではない、の意味です。

 このように倭人伝を正確に読んでゆけば卑弥呼は少なくと
 も、近畿にはいなかったのです。
   


 
  
  


 

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この記事へのコメント

Aべ
2009年04月03日 07:23
近畿説では、「径百余歩」である卑弥呼の墓を箸墓古墳としているそうですが、里や歩の長さについては、九州説と近畿説では捉え方が違うのですね。

三国志は倭国だけでなく、他の国のことも記述しているのだと思います。
魏から倭国への行程が示されているように、他の国への行程も記されているのではないでしょうか?。

もしそうなら、行程の記述の仕方について、倭国へのものと他国へのものを比べてみるのも自論の正しさを証明する根拠になるのではないでしょうか?。

倭国へたどり着くのと同じ解釈・やり方で計算した時に、他国にもたどり着けるのかということです。

例えば「魏から倭国は12000里」「魏からタイまでは20000里」という記述があったとして、「それぞれの説が主張する距離や方向などの換算基準」が正しければ、その基準を当てはめた時に倭国にもタイにもたどり着けるわけですから。
そういったことはすでに行なわれているのでしょうか?。

私自信は調べる気力が無いのに、思いつきの質問で恐縮です。

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