卑弥呼ー26 景初三年鏡

 前ページで
  【「景初二年」も、やはり原文がただしかったのです。】
『 景初二年(魏と呉の戦争の最中)卑弥呼の貢献使は
  戦火をくぐって、洛陽に行った!!!。』
 本当に卑弥呼の遣使は明帝の居した都に、お出迎えの
 吏とともに朝貢したのです。

 しかしここで、
 景初三年鏡(といわれている)有名な、大阪府和泉市
 の黄金塚から出土した鏡があります。
  
  【景初三年陳是作銘銘之保子宜孫・・・・(第二字「初」
   は、はじめ「和」とよまれた)】。 この銘文をもってして
  景初三年鏡と呼ばれているものなのです。
 
  【この鏡こそ、魏から卑弥呼に与えられた「銅鏡百枚」
  の中の一枚ではないか!】と、そのように考えている多
  くの(古田氏説に手を揚げている人たち以外のほとんど
  ですが)学者がいます。
 そして、この鏡が大阪で出土したから。と、これは、きっと
  卑弥呼居した都は近畿だ。と安易に決め付け、しかも
  他の九十九枚の「景初三年鏡」が未だ見つかってもいな
  いのに、もう確定したかの如く、定説化しているのです。
   原文の「景初二年」が正しかった、という事が判明した
   以上、「銅鏡百枚」のことを述べている詔書は「景初三
   年十二月」ではなく、「景初二年十二月」の詔書でなけ
   ればなりません。
  そして、「景初二年十二月」の(明帝が死の直前に書い
   た)詔書には、この「銅鏡百枚」などを、
   「皆装封して・・・・・付す」と述べられている。
   、ということは、「装封された銅鏡百枚」の中に、「景初
   三年鏡」は入ってはいなかったと、考えなければ、道理
   に合いません。
    【明帝は死の直前に書いた「景初二年十二月の詔書」
   は、直ぐにでも下賜行為できるよう、「皆装封して」用意
   しておいた。しかし、あけて「景初三年」正月に、下賜の
   実行をできずじまいで 急死 となってしまったのです。】
    そして、服喪の一年となり、朝廷の諸公事は、完全休
   止状態となり、その年の暮、「景初三年十二月」に諸公
   事再開、翌年年号も「正治」となり、その正月、明帝の
   遺志を継いで「景初二年十二月の詔書」を・・そのままに・・、
   倭国への遣使となり、卑弥呼のもとに届けられた筈です。
  
   ここで、もう一度、よーく考えてみましょう。
 斎王(明帝の次の王)が、「装封した」詔書を開けて、「景初
  二年鏡」を、破棄し、わざわざ「景初三年鏡」を(作り)取り
   替えて、倭国へ届けた!!。、と、こんな呆れたことをし
  ない限り、「景初三年鏡」はなかったと考えた方が妥当と
  思われます。 
 このように根拠の薄弱な想像で、卑弥呼が貰った銅鏡
 百枚の内の一枚が(ただの一枚が)、近畿で見つかった
 として、卑弥呼の都は近畿であろう、、近畿に違いない!
 と、ここで既に決まったかのごとく、仮設ではなく定説とし
 て喧伝しているのです。
   本当にそれで良いのでしょうか??。

  私は考えます。
 弥生時代の創めのころには九州王朝に先駆けて(少なくと
 も神武の東征より)、強大な出雲王朝があった。
  そうです、
 銅鐸王朝があったのです。そこへ神武が侵略、まず奈良
 地方を制圧、そして大阪の茨木市(銅鐸製造工場のあっ
 ところ)へと進出して、(ニギハヤヒ=銅鐸王朝)をメチャク
 チャに、壊し、葬り去ってしまったのです。
  したがって、もし卑弥呼が神武の系統に属していたとす
 れば、日本書紀、古事記に卑弥呼の記事や、卑弥呼の文
 字が載っていなければなりません。ところがその存在も、
 伝承の片鱗をも見せていません。
  そのように考えれば、少なくとも卑弥呼は近畿にはいなか
 った。また、たった一枚の景初か景和か、はっきりしない
 (三年鏡)が出土したからといって、「卑弥呼が貰った景初
 三年鏡」だと定めるのは早すぎるようにおもいます。
  この「三国志」当時の(倭国)は近畿ではなく、九州でなけ
  ればならない筈、なのに?。
 
  私は少し結論を急ぎすぎてしまっているようです。

  「壹→臺」、「治→冶」、そして今ページの「景初二年→景
  初三年」と、この他のもまだこのように改定されている
  文字(文)があります。
  それは、「対海国→対馬」と「一大国→一支国」。そして、
  (邪馬壹国)の所在地に関するところで「南→東」、「陸行
  一月→陸行一日」、と次から次へと改定のオンパレードで
  す。
   もう最初から、「邪馬台国」ありき、と決め付け、卑弥呼が
  都したところは、大和だ、山門だ、と、自論に都合よく、都合
  の悪いところは文字を変えて倭人伝を解釈し、我田引水的
  に「ヤマト」しか無い、と自分の論を展開しているのです。

   これでは、倭人伝の道を探し求めているのではなく、自分
   勝手な道を作って、口笛でもふき、声高く歌い上げながら、
   闊歩して、歩いているようなものです。

   こんなものは歴史も、へったくれも、ありません。
  
   みなさんは、どうお考えでしょうか?。・・・・・
     
   

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