卑弥呼ー25 パンドラの箱

 前ページでは、景初三年は誤りであるということ
  がはっきりしました。

 景初三年正月、明帝の急死に遭遇した卑弥呼の
 使難升米たちは,驚いて空手で、本国へ帰還したと
 おもわれます。
  その後一年間は魏朝の服喪。諸公事、諸儀典の
 中断となり、その年(景初三年)の十二月になって、
 (斎王)の諸公事再開、年号改定の詔書により、正
 治元年をむかえた。斎王は女王国に対して、欠礼と
 なっていた詔書の内容を実行することとし、魏の側
 から倭国への遣使となったのです。詔書内容のそ
 のとうりに、大量の下賜品が卑弥呼のもとに届けら
 れることとなったのです。「古田武彦氏著の(邪馬
 台国)はなかった」より抜粋させてもらいました。

 正治元年、太守弓遵、建中校尉梯儁(ていしゅん)
 等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王
 に拝仮し、ならびに詔を齎(もたら)し、金帛・錦けい・
 刀・鏡 ・采物を賜う。「ここも氏著の抜粋より」

ここでは、魏(斎王)側が、倭国の卑弥呼の所へ、
  大量の下賜品を持参して送り届けた、と、なって
 いるのです。
  前ページの景初二年六月に貢献を求めたことに
 対し、そのときの歓待ぶりと云い、今回の女王国
 まで、わざわざ送り届けたことも、中国側のとった
 鄭重さ振りは、異例中の異例だったようです。
 
 上記のように景初二年の戦中の献使としての奉献記
 事を読んで行けば、なんの疑問もなく理解することが
 できます。
  、が、これを景初三年と捉えると、矛盾だらけの、疑
 問符付きの奉献記事となってしまうのです(ここの疑
 問符付き記事の詳細については、このブログには収
 まりきれない文章となりますので、少しずつではあり
 ますが、次の機会にゆずらせていただきます)。

   陳寿の著した三国志を読み解くに、持論の説に
 合わせるため、簡単そうで、便利そうな、宝の箱を開
 けてしまったのです。
 石が詰まった“パンドラの箱”をあけてしまったのです。
  ページをめくれどめくれど、改定の壁にぶち当たり、
 その甘い誘惑に負けてしまっているのです。
  その甘い誘惑の手を差し伸べているのは、他でも
 ありません、後漢書(范曄)、梁書(姚思廉ようしれん)
 等、三国志にとっては後代史家です。彼らの出してい
 る甘く麻薬のような蜜を舐めたら最後、もうそこから抜
 け出ることはできません。
歴史の真実を歪め、改ざんをせざるを得なくなってい
 るのです。
   結果、パンドラの箱から抜け出ることは至難の業、
 もう、やぶれかぶれ、蓋を閉める他ないのです。
  
  もう、いいかげん蓋は閉めてしまいましょう。・・・・・・・ 
  

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