卑弥呼ー24 女王国

 前5,6ページでは少し道草をしすぎたようです。
  時代も先へと進みすぎたようです。
 
 さてここからは、女王国(卑弥呼)が都していた所
 の探求に入ろうと思っています。お付き合いのほど
 よろしくおねがいいたします。

ちょっとその前に(17ページ)で、范曄は「会稽東治」を
 「会稽東冶」と改定したことの「非」を述べさしてもらい
 ました。

 范曄は、三世紀卑弥呼の時代の常識を五世紀現在の
 常識で歴史を読み解こう、三世紀より社会も進歩し、
 より良い常識社会に住んでいる、・・・と、要するに、
 今現在の、ものさし、で、一昔前の歴史を計り、都合
 の悪いところは、削り、足りないところは、付け加えたり、
 ・・・と、まあ一言でいえば、実録歴史書ではなく、歴史
 物語風歴史書(後漢書)を書いたのです。よりによって
 文字を好き勝手に書き換えて出来た歴史書の、当に、
 その文字(語句)を、日本の歴史家、諸家たちは、自分
 にとって、都合のよい、・・こうあるべきだ、・・・と、
 わざわざ改定した文字(語句)を平気で引用して、
 捻じ曲げられた古代史を語っているのです。 

  この「会稽東冶」と同じような重要な改定問題
 の、お話をしておかなければなりません。

  景初2年 を 景初3年へと改定の問題

 景初2年の時代背景は、呉の公孫淵が東アジア(韓半島)
 を、制圧しており、韓半島や倭国からの貢献が滞っていた
 のです。その状態に危惧していた魏の明帝は公孫淵を討
 つべく詔を宣布した。
  (そんな中、)【景初2年6月、倭の女王、大夫難升米等を
  遣わし、郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。
  太守劉夏、吏を遣わし、将(も)って送りて京都に詣ら
  しむ。】《この記事の中に注目しなければならない文が
   あります、・・・天子に詣りて朝献せんことを求む・・・、女
   王国側から朝献をさせて下さいと述べているのです。積
   極的に、しかも魏側から命ぜられてではなく、自ら朝献
   させてくれ、と求めているのです。ここには女王国の強い
   決意と、なみなみならぬ深慮遠謀がはたらいているよう
   に思われます。》(おそらく、自国内の勢力坑争の渦に巻
   き込まれ、魏からのお墨付きが必要であったのかもしれ
   ません。)

   この貢献記事は上記のように、景初二年の魏(明帝)と
  呉(公孫淵)の戦の真っ最中の貢献であったのです。.
 
   しかしここで戦の状況をよくみれば、景初二年六月は、
 公孫淵にとっては戦況悪く兵糧攻めに相い、首が真綿で
 徐々に締め付けられて、もう、にっちもさっちも身動きでき
 ない、有様だったのです。
  そこで女王国は魏側の道案内があさえすれば、洛陽ま
 で行くに、まったくの皆無の道のりではなかったと踏んだ
 のでしょう。女王国は・・・今がチャンス・・・とばかり、明帝
 に朝献を求めたのです。(これを古田氏は、機を見るに敏
 なり、と卑弥呼を讃えています。)
 
 それに対して、魏(明帝)は、
   (女王国の要求に応えて)「太守劉夏、吏を遣わし、
   将(も)って送りて京都に詣らしむ」とあります。
  明帝は女王国の要求に応えて、道案内人を差し向け
  ることまでして、洛陽まで貢献人を迎え入れたのです。
   明帝は、景初二年六月には、呉との戦いの勝ちの
  目途がつき、ほっと、一息を入れてたところに、間髪を
  いれず、奉献を求めてきたのである。明帝は、よほど
  嬉しかったと見えて、さあさあどうぞと、いわんばかりに
  女王国の使を迎え入れたのです。その年の八月には
  戦いの決着もつき、明帝は勝ったのです。そして八月
  になれば、他の多くの夷蛮(女王国以外)のお祝いの
  奉献が、ひっきりなしに行くことになるでしょう。いちは
  やく女王国は、いの一番に、かけつけたのです。
   そして、明帝は感激したのである。そして「親魏倭王
  卑弥呼に制詔す・・・・故に鄭重に汝に好物を賜うなり」
  と。・・・・・と、有名な詔書が下賜(下賜の実行行為は
  あとになるのですが)されたのです。
  
  そのように考えると 
  魏と女王国の、互いの目的の時間軸が、景初二年に
 収束し「戦中の献使」でなければならなかったということ
 が、はっきりと理解できます。

 そして
  魏の明帝は景初二年十二月に急病を突然患い、それに続い
 て「急死」となったのです。この状況から推測すれば、明帝の
 死は景初二年から年改まって直ぐの、正月のことだったのです。
  しかし明帝の死の前(景初二年)に
 詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。
 ・・・・・(中略)・・・・・故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。

明帝はこの有名な「親魏倭王が書かれている」詔書を残し、
 死んでしまったのです。そして魏の国は景初三年正月から
 その年の十二月まで喪に服す一年となったのです。
  (喪に服す)一年間は公事は一切休止状態、夷蛮の献使も
 受け入れることが出来ないのです。いわんや女王国の献使
 も受け入れてはもらえなかった筈です。

 ・・・・・故に、景初三年の奉献はなかったのです。・・・・・・・・

  上記の「会稽東冶」の改定と同じような事を、またしても、
 日本の歴史家、諸家がこぞって、やってしまっているのです。

  そしてそれが今では、ほとんどの諸史家がこの改定を、定説
 としてとなえているのです。
  
 そうなんです。景初二年は、正しく、(景初3年は誤り)と気付く
 はずなのに、後顧の憂いもなく、いとも簡単に改定してしまっ
 て平気な顔でいる、この非がまた、明らかとなったのです。

 次ページで、もう一つ、二つの改定問題をかかせてもらいます。
  
  
 
 
  

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