卑弥呼ー23 道草 六

 前ページ,前々ページで
  絶唱雷山(古田氏は「雷山の絶唱」と、題していた。)の
 二つの歌を紹介さしてもらいました。
  古田氏によって、甦った二つの歌、再びこの世に光輝く
  ・・・いのち・・・の胎動をし始めた,この二つの歌。
 古田氏によれば、・・この歌のすばらしさを認めていたのは
  紀貫之と、時の天皇(醍醐・青年天皇)、くらい、とか。・・
 ・・・紀貫之は、その繊細で鋭い直観力で150年位前の、
 歴史の改ざん、歴史の変修を見抜いていただろう。とか・・・
 なぜならば、日本書紀 には「人麻呂はいない」のです。
正式にはいないのです(天武紀には→柿本臣さる
 続日本紀では→柿本朝臣佐留 とありますが)。・・・・
 そして正史(日本書紀)の成立以後は万葉集は存在しては
 ならない本なのです。ですから、宮廷内では(密かに、私的
 に読まれていたとしても),公の本ではなかったようです。
 ・・とも、氏 は言っています。
  私は次のように、考えています。
  人麻呂は、「白村江の戦」の一部始終を知っていた。

【古田氏は、(壬申大乱)の中で、白村江の陸戦における
   百済の戦場と、状況を記した歌、万葉集中の人麻呂の
   高市皇子にたいする挽歌の中に、百済の「和ざみが原」
   《和ざみ=倭山(百済の倭地名)》における陸上戦を、
   発見したのです。この戦場地名「倭山が原」で九州王朝
   の「明日香皇子」は大敗を喫し、自らも戦場で斃れ、
   そこから彼の屍は“運び去られ”ていった。人麿はその
   ように見なし、そのように歌っているのです。この歌の
   中では・・・“壮烈な戦死”・・・をうたっていたのです。
    それを、壬申の乱に盗用して、美濃の国における戦闘
   の場名として万葉集に載せたのです。
    しかしこれは百済の「倭山(倭地名)」という戦場地名
   だったのです。】
  
上記のように、人麿は、
 白村江における、九州王朝と奈良王朝との関わり合い
 を知っていた。白村江の戦の当時、人麻呂は九州王朝の
 冠位正三位を授けられた歌人であった。
  白村江へ行く前は九州王朝も、近畿王朝と手を組んで、
 共同戦線のもと、唐、新羅連合軍と戦っているものと合点
 して、作戦遂行に当たっていた。ところが、近畿王
 朝側は斎明天皇崩御の命の喪に服す、を大儀名文として
 九州から、韓半島にわたらず、とっとと近畿に帰ってしまった
 のである。
  これは、完全な裏切り、、、、である、と私には見えてなり
 ません。
  近畿王朝は最初から唐、新羅連合軍と共に裏工作をし、
 九州王朝を斃して、九州王朝にとって替わって国内唯一最
 大の王朝に、と、もくろんでいたのである。
  白村江は近畿王朝にとっては絶好の機会、
  九州王朝は白村江へ向かう前に既に四面楚歌状態、だっ
 たのです。
  唐、新羅の軍船は準備万端の態勢で、時は今か!と、九
 州王朝船艦を待ち構えていたのです。そのようなところへ九
 州王朝の、船艦は突入していったのです。
  勝敗の行方は,火をみるよりあきらかでしょう。飛んで火に
 入る虫状態
  まんまと九州王朝は騙されてしまったのです。
   
 【そして九州王朝はここから滅び行く道に入って
  いったのです。】 

 人麻呂はこの辺のいきさつを、十分すぎるほど、知って
 いたのでしょう。
  近畿王朝は九州王朝を斃してその中の有能なる人物を
 冠位を下げ、召抱えたのだろうと考えられます。そして
 人麻呂もその中の一人だったのでしょう、しかし当代随一
 の歌人人麻呂、白村江当時の一部始終を知っている、
 歌人人麻呂。ともすれば両刃ともなる危険で偉大なる
 歌人ひとまろ、であったとしても、近畿王朝も召抱えざるを
 得なかったのでしょう。
  そして人麻呂は近畿王朝の七世紀の変修の世紀という
 ことをも目の当たりにしたのです。
  
  古田氏は言っています、
 万葉集は「七世紀の歌が、八世紀(奈良時代)
         の顔に変えて『変修』されている。・・・と・・・

  挙句の果てに前出の二つの歌(雷山の絶唱)が、見るも
 無残な姿に変編修され(作歌場所を変えることによって)、
 恣意的に、「阿諛作歌」として万葉集に登場させられて
 しまったのです。
  そしてそれがずーっと、
   近、現代の人々(主に、明治~昭和,平成の)にまでも
 駄作作歌、阿諛作歌として人麻呂をして評せしめさせて
 きているのです。今もそれが続いているのです。

 そうです、まさに「九州」の「雷山(雷岳)」から、
   近畿の「雷丘」へと(移行変修)されているからこそ、この
  状況が続いているのです。
 人麻呂は半生を九州王朝に、後半生は近畿(奈良)王朝
  に仕えたのです。九州王朝では冠位正三位を賜り、近畿
  王朝では、どうしたことか、従四位下と位を降格させられて
  召されたのです。
  
 皇(死者の王、すめろぎ)を、大君(現在の王、おほきみ)
 と、駄作歌、阿諛歌といわれようが、どうしようが、お構い
 なく現在の王朝の王を讃えんが為の歌として、文字を
 変えてまで近畿(奈良)の歌としたかったのです。

 しかも、この二つの歌には時代背景が重くのしかかって
 いるのです。それは「白村江の戦」の大,大事件の存在
 です。

 そしてその「白村江の歌」の削除もあったというのです。
  しかしどんなに削除したとしても、人麻呂の歌の中を
 覗き見れば「白村江」の顔が、ちょろ、ちょろっと、見え
 隠れしているのです。

古田氏著の壬申大乱の本の中にはそれらしき歌が載って
 いるのです(古田氏云)。
 
 どうして、こうまでして変編纂しなければならなかった
 のでしょうか?。

 やっと次から本題にもどります。またどうぞよろしく。 
  

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