卑弥呼ー16 邪馬壹国

 「三国志」の中には「邪馬臺国」はなかったのです。
もちろん日本の歴史学上江戸時代中期より現在に
至るまで大手を振って闊歩して定説道を歩んできた
 「耶馬堆」・「邪馬台国」の道もようやくここで途絶
しなければならない時がきたのです。
 「邪馬壹国」のお話を語れるときがきたのです。

ちょっとその前に,「范曄」は 「壹」→「臺」へと、
「壹」よりも「臺」と書き直す方が今現在の世情に
より合っているだろう、というこの方法で、
倭人伝の中の陳寿の根底にある思想性を無視し、
原文の文字を、「倭人伝執筆時、魏志倭人伝中の
倭人の活躍の時期と范曄の生きた社会環境等、
時代の前後の錯誤の中、混乱と錯覚に誘われて
しまったのでしょう」、書き換え(改定)をして、
陳寿の倭人伝を頼りに後漢書倭伝を書き上げて
しまったのです。
このような方法で改定をした箇所が二、三あります。
それをここで紹介しておきます。
   その①は〈地名記事〉で  倭国の位置はおよそ
(その道里を計るに、まさに会稽東治の東に在るべし)→陳寿
     の東治は東冶のあやまりとする。、、、と、
(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東に在るべし)→范曄
 と、范曄はこちらの方がいいと錯覚してしまっているのです。
(1~2世紀後漢時代、東冶県はまさに会稽郡に属して存在し、
  范曄の時代にはまた「建安郡」という郡名もすでに行政上
  姿を消していたのです)。
 
   分郡(260年)以前は、「会稽郡の中(南部)の東冶県」は
   存在したが、分郡以後は会稽南部は建安郡と改表記され、
   東冶県はなくなってしまっていたのです。
    ということは「会稽東冶」は陳寿が倭人伝を書いている
    時にはすでに存在していなかったのである。
   范曄の(治)を(冶)書き直す、というこの方法は間違いで
   (会稽東治)と解読しなければならなかったのです。 

では,その「会稽東治」の意味はというと、
 陳寿はずっとその昔の「夏」の時代まで思いを馳せていて、、、
   夏の中興の英主とされている少康(夏后少康)の子が
  会稽の王に封ぜられ、「大魚・水禽」の害を祓うためにと
  「断髪文身」を会稽の東の水辺の民に教えたというのです。
   
   ところがその教えが今(三世紀、陳寿の頃)、倭人にまで
   及び、古の夏の治蹟に感化され、「断髪文身」して水に
   沈没している、というところに陳寿は注目して、倭人は
   夏、殷、周,漢、魏と文化史的交渉(貢献という形で)で、
   倭人が象徴的に「断髪文身」文化を受入れ古より、ずっと
   今日まで及んでいるということを述べているのです。
 

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