卑弥呼ー14後漢書(范曄ハンヨウ)「邪馬臺国」

三国志の中では女王国は「邪馬壹国」と
書かれており、決して「邪馬臺国」とは書
かれてはいなかった。ということが古田氏
によって、確かに証明されました。
 更に古田氏はいっています。
  ですが、歴史上「邪馬臺国」と書いた人
  がいた、というのです。
  その人は「後漢書」の(范曄)なんだそうです。
   《国皆王を称し、世世伝統。其の大倭の王
    邪馬臺国に居す》後漢書・倭伝
  しかし、これは「三国志」ではない。
   范曄は、398年に生まれて445年に死んで
  いる。ということは5世紀半ば近くにこの本は
  かかれたのである。したがって、3世紀末近くに
  「三国志」を書いた(陳寿)とは1世紀半の間隔
  がある。ここで注意しなければならないのは、
  「三国志」と「後漢書」は著述対象と執筆時期
  との前後が逆になっていることだ。後漢は三国志
  の直前の時期である。
   だから、著述対象は「後漢書」の方が先だが、
  執筆時期は「三国志」陳寿よりおそおいのである。
   陳寿は自分の少・青年時代に見聞きした世の
  動きを、(同時代史)として「三国志」を著したので
  ある。
   陳寿は(晋)の国の史官であった。
    晋は魏のあとつぎとして、平和裏に政権が禅譲
   され、豊富で信憑性の高い同時代史料のなかで
   三国志を描いたのである。
    これに対し、「後漢書」の場合、「三国志」の持つ
   史実の信憑性とまったく異なっているのである。
    范曄、は、「漢書」と「三国志」の間に「後漢時代」
   が欠史状態なっているのを見、これを自らの手で
   穴埋めしようとしたのである。
    しかし時代はすでに、【後漢ー魏ー晋(西晋)-
   東晋ー宋ー(南朝劉宋)】と経過していた。しかも
   その間には、316年、匈奴冒頓(ボクトツ)の一族
   によって晋が滅ぼされ、晋の王族の一部が辛うじて
   揚子江の南にのがれる、という一大異変がはさまれ
   ていた。それ以来、かっての都、洛陽をふくむ華北は
   、いわゆる「五胡」の地と化したのである。
    陳寿が書いた「同時代史」(三国志)の正確な史料
   に比べれば、一世紀初から三世紀初までの後漢の
   歴史を五世紀半ばに書こうとした(范よう)の苦心は
   察するに余りあると思います。後漢の史料は紛失
   していたり、歪曲化されて伝えられていたり、と。
   三国志の正確さとは比べものにならないでしょう。
    范曄、は、「倭伝」については三国志の「倭人伝」
   の記事を頼って骨格はそのまま「倭伝」に組み込み
   達文の士として定評のあるだけに、「三国志」の原文
   を要約して達意の章句にしあげているのである。
    しかしその造文、変句のさいに、所々歴史事実の
   実態がすりかえられていえうところがあるのである。
      
   そしていよいよここで
      「邪馬臺国」が登場してくるのである。
  
 

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この記事へのコメント

ぷぅにゃん
2011年11月20日 15:49
べっ、べつにアンタのために教えるんじゃないからね!(人・ω・)★ http://ktjg.net/

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