ハナサンピン

アクセスカウンタ

zoom RSS 14C測定値と倭人伝・・・(1)

<<   作成日時 : 2014/09/01 04:23   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

数年前のことになりますが、実のところ....前ページの““成王の時、
越常(えっしょう)、雉を献じ、倭人、暢を貢ず。””の記述(『論功』)
に古田氏の著書にて出会い“こんなにも古い時代の中国王朝史
に倭人が姿を現していた”・・・ということを知り、当時のわたしにと
ってはまさに青天の霹靂。目の前の景色が一瞬ガラリと変わり、
別世界へ迷い込んだ妙な感覚に捉われたことがありましたが、
今回も14C測定値と歴史の史実との整合性を追っているとき、倭
人伝のある語句にある種のインスピレーシを感じ、そこを何回も
読み返しているうちに、(成王の時)よりもまた更に古い時代の倭
人に出会ってしまい、かれらが中国の歴史へ登場していたことを
予感させる記述となっていることに気づき、前回に増しての強い
衝撃を受けることになりました。

それは、素人だけに、わたしにだけ感じる浅はかな感覚だったと
いうのだろうか。わたしにとっては不思議な経験でした。

でも、ヒョットしたら・・・、
縄文時代(前2000年)の頃にも既に倭人が中国詣でのため、筏に
乗って黄海を行ったり来たりの想像図を、14C測定法と相呼応して
思い描かれる時代に入っているのではないかか・・・と。

そのように不思議で夢のような語句を含む原文を下に示します。
画像
男子無大小、皆黥面文身。自古以来、
其使詣中国、皆自稱太夫。
夏后少康之子、封於會稽、断髪文身、
以避蚊龍之害。
今倭水人、好沈没捕魚蛤。文身亦以
厭大魚水禽。後稍以為飾。諸國文身
各異、或左或右、或大或小、尊卑有
差。
   計其道里、當在會稽東治之東

また、その夢膨らむ絵姿を決定的に
示す語句が上記原文中の、“計其道
理、當在會稽東治東”の“會稽東治”
の四文字にギッシリと詰め込まれ、そ
の謎の解かれることをヒッソリと待っ
ていたように見えたのです。

まず、この原文の前段部““男子無大小、皆黥面文身。自古以来、
其使詣中国、皆自稱太夫。夏后少康之子、封於會稽、断髪文身、
以避蚊龍之害。””

・・・の文章に注目してみます。

(尚・・、後段部、““今倭人〜〜〜から「尊卑有差」。””の記述に
ついては,魏使が倭人の風習を目の当たりにして、その進展状況
を昔に振り返りながらの記述なので、この部分についての説明は
省くことにして、その次へと飛び越えて進むことにします。)

上記原文を三句に分けたその第一節・・・、
(イ)≪男子無大小、皆黥面文身。≫について。

この原文の前には、・・・(郡より女王国に至るに万二千余里)・・・、
という有名な一句があるから、これから述べる文章はすべて女王
国に関する記述のはずです。それゆえ、“男子無大小、皆黥面文
身”の前にも(女王国の)という言葉を前置きして読むことにしま
す。
そうすれば、これからの文章全体の内容も容易に把握することが
できると思うので。

・・・(イ)、“(魏使が女王国に到達したときのそこの住民は)男子は
大人子供に関わり無く、皆黥面文身していた
”・・・、と読みます。

次に、第二節(ロ)≪自古以来、其使詣中国、皆自稱太夫。≫につ
いて。

上記文章・・・の(其使)も、当然、前節の(女王国)を受ける代名詞
となるので・・・、
・・・その口語訳は・・・、
・・(ロ)、“(いにしえ)より以来、(黥面文身の風俗をもつ女王国の
使者が中国の朝廷に詣るときには
皆「太夫」を自称していた”とな
ります。
ここのところをもう少し詳しくいえば・・・、
すなわち・・・、陳寿は倭人と中国のお付き合いの昔(周以前の時
代まで)を振り返りながら、〔今、目の前にいる黥面文身の風俗をも
つ倭人は“その昔(少なくとも周の時代)から、中国の朝廷へ詣ると
きは必ず、皆「太夫」を自称してやってきていた”〕・・・の、倭人の漠
然とした古代の歴史を確かめながらの回想録形式の一節です。

また、ここで、(古より以来の「古」)と(太夫を自称の「太夫」)とが表
す時代の再確認を・・・。
(a)「古(いにしえ)より以来」・・・・→『三国志』の中では、「古」は原
 則として「周以前」つまり、ほぼ「堯ぎょう、舜しゅん、禹、夏、殷
 ん
、周しゅう」以前の時代を指すときの用語です(古田氏のサイトよ
 り)。

(b)「自ら太夫(たいふ)と称す」・・の「大夫」とは、「卿けい、大夫たいふ
 士」という統治階級の三分法の一つであって、周以前の制度で
  あることはよく知られています。「士」も「大夫」も、『論語』などに
  出てきて、わたしたちにはおなじみです(これも古田氏のサイト
  よりの引用です)。

古田氏ご指摘のとおり、(古より以来)と(「太夫」を自称)とが周以
前の古い時代を表す言葉となっていることがわかります。また、倭
人は中国の朝廷へ詣るときには、(いつも)皆儀式上“「太夫」を自
称しながら詣りきたっている”と、重ねて述べているのであるから、
当然、(「太夫」自称)の儀礼は、陳寿がこのページで述べている時
代よりさらに古い時代から始まっていることを予感させ、倭人もその
時代にその儀礼の様式を習得、そしてそれが慣例化して、それが
そのままズーっと陳寿の時代に至っている・・・、ということを表そう
とする二つの語句であった・・・、ということもわかります。

陳寿が心の中で描こうとする時代は・・・、
・・・周代はおろか、あるいは殷を越え、遡ること中国最古の王朝、
「禹」の時代まで遡らせ、その時点ですでにその儀礼上の挨拶様
式、(「太夫」の自称)の習慣が始まっていた・・・、と解釈しますが、
想像が逞し過ぎるというでしょうか。

しかし、わたしにとっては・・・、
このあたりに今ページの謎解きのヒントが隠されているかも知れ
ない、と、そう見えたので。

このヒントを具現化でき得るキーワードを、『史記』の、ある一文に
見つけました。そのキーワードは“諸侯”という言葉です。

下にその文章を紹介しておきます(もちろん、これも古田氏著「邪
馬台国はなかった」の中に掲載された文章からの引用です)。

A、『史記』には、・・【“帝禹東巡し、會稽に至りて崩ず。”〔それに
   付随しての<著者司馬遷の付言>「・・・・・虞夏(ぐか)の時よ
   り、貢賦備はる。或は言ふ。禹、諸侯を江南に会し、計功して
   崩ず。因りてここに葬る。命じて曰く“會稽せよ”と。會稽は会
   計なり」】。・・・の文章です。(注、虞=舜の氏)

また・・・、
陳寿にとっての現代史ともいえる、『倭人伝』のなかの、「大夫」に
関する記事も・・・。
B、【倭人伝の、““景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣
   わし郡に詣り””・・・】。・・・の記述です。

注:C、【諸侯とは :古代中国で,天子から封土を受け,その封土
     内を支配する人=諸国の王】(これもあるサイトより)。
ついでに国王と大夫の上下関係を・・・、
注:D、【国王と大夫の上下関係 :内臣(皇帝の領土内での国王)
     →外臣(周辺国の国王)→卿(中規模以上領地)→大夫(小    
    規模領地)→士(領地なし)】(あるサイトより)。

この(A)の記述は、古代に関する記事で、(B)、は陳寿にとっての
現代史のなかでの記述となり、この古代と現代を併記照合がこの
ページの謎解きの主題(テーマ)と考えています。

そのとおりに、双方を注視すると・・・、「禹」の時代には“諸侯”という
眼目の言葉があり、そしてまた、陳寿にとっての現代史では“大夫”
という統治組織の一部の言葉の出現があります。

〔注、(C)、(D)〕より、“天子(皇帝)→国王→大夫”の関係を導き出
せることで、「大夫」の上司は国王となり、すなわちその国王は(柵
封体制)下でも「諸侯」と同等の立場になります。よって、“「諸侯」→
「大夫」”の上下関係は、倭国での“「女王」→「大夫」”と同じ、という
ことになります。

結果・・“「諸侯」を江南に会し”、の記述もあることから・・、陳寿の
現代の(倭国の王「諸侯」→大夫)の組織関係をそっくりそのまま
「禹」の時代へ移行しても、双方は完璧な相似関係となり、「禹」
の時代でも、“天子(皇帝)→国王→大夫”の組織図が存在してい
たはず・・・、ということになります。
(ここまできたら・・・、すでに、お分かりになるように)・・・、
「禹」の時代の“諸侯”と陳寿の時代の“諸侯”もよって立つ位置は
同等となり、陳寿の時代の倭国の「諸侯」もイコール女王卑弥呼
となることがわかります。

よって、「禹」が“諸侯を江南に会し”の諸侯の中には女王の祖先
の千数百年前の先祖の倭国の王(=諸侯)が含まれていたかも
知れない。という理論も成り立ち得るのでは・・・。

実際も、陳寿はそういいたかったのでしょう・・・と。

ここで、少しの余談を・・・、
今ページの、「(禹の時代の諸侯)=(女王国の祖先の王)」の等
式で結ばれることに気が付く前は・・、「禹」が中国国内のみの諸
侯ばかりを江南に集めて・・・、と考えてきたので、何故、諸侯の
集合場所を洛陽近辺(今現在では「二里頭遺跡近辺」が禹の時
代の都とされているが)としないで、「禹」の統治領域の南端の海
辺の「江南」としたことを理解できなく、不思議に思ってきました。

しかし、(禹の諸侯)=(倭国の女王)の等式の成立に気付けば、
“ナーんだ”ということになり・・・、
“江南は韓半島からも九州の倭国の王(諸侯)も黄海を越えれば
ひとっ飛び”。その地は「江南」であり、そこは、すなわち““東巡し
て崩ず””、で有名な歴史的に深い由緒のある「會稽」に近い地域
ということになります。そこで、“ホッと一息”、無事解決、の段とい
うことになるでしょうか。

禹は中国国内の諸侯はもとより、周辺国の夷蛮の諸侯ともども會
稽に集め、そこで、全ての諸侯に “會稽せよ” と、檄を飛ばしてい
た、という図絵が思い浮かび、当時の統治組織も揺るぎなかった
であろうことが容易に推察できます。

そして、前段部の決め手、(ハ)““夏后少康之子、封於會稽、断髪
文身、以避蚊龍之害。””
・・・の、時代確定の昔話の文章へ突入す
ることになるのですが、この文章も前節同様単純そうに見えますが、
どうしてどうして、ことはそう簡単にはゆかないようです。
多くの歴史的背景を視野に入れながら読まないと文意も何も無い
偏平な解釈に陥ってしまうので、そこにはご注意を。

この一節は、““その昔、確かそのようなことがあったはずだが”の、
確信しながらの回顧録とみます。

その口語訳は・・・、““夏后少康の子が會稽に封ぜられし(王とし
て赴任した)時、断髪文身が蚊龍之害から「避ける」に(逃れるた
めには有効であることを「教えていた」)””・・・、と読みます。

これに反し、通説では、“(夏后少康之子)自身が蚊龍之害を避け
るため(断髪文身)している”、と(夏后少康之子)自身の行為とし
て読んでいます。

この解釈は、中国古代の「周代」の「呉の太伯」の故事に依拠した
もので、(夏后少康之子)と「呉の太伯」の立つ立場のいわれを同
等扱いにした読み方です。が、しかし、(夏后少康之子)と「呉の太
伯」の立つ歴史的立場は同じかっただろうか。

ここで、その「呉の太拍」の故事の説明を(古田氏の著書より直接
の引用です)。

【周の太王に三人の子があった。「太伯・仲雍・季歴」である。この
中の末子(季歴)に昌という子があった。のちに周の文王として聖
徳をうたわれ孔子に慕われた王者である。 太王はこの昌を愛し、
「季歴――昌」の系列に天子の位をゆずろうとした。この父の意思
を察した長男の太伯は呉の地(會稽山近辺)に」行き、身をかくし
た。
   
   そこで
 文身断髪、示不可用。(文身断髪して、用ふ可からざるを示す。)

・・・と書いてある。

これは明らかに、太伯自身が「文身・断髪」しているのである。この
故事をとらえて、「夏后少康之子」や「呉の太伯」たち王侯が、みず
からこのような習癖をもっていたかのようにのべてある本もある。
しかし、これは明らかに『史記』の文の読み違いだ。ここに「用ふ可
からざるを示す」とある点がポイントだ。
つまり、太伯は自分が長男ながら父の意を知って、天子の座を辞
退せんとして都をさり、僻地にやってきた。しかし、それだけではま
た老臣たちから「長男として」天子になることを求めて都に呼び返さ
れるのを恐れ、そのような都からの要望を決定的に断ち切るため
に、「文身・断髪」したのである。“もう自分は天子などにはなりえな
い身となったのだ”ということを示したのである。
つまり、ふたたび都の貴族階級の中に復帰することを永久に拒否
する、という意思を肉体の中に刻み込んだのである。

すなわち、この「美談」説話の背景をなすものは、「文身・断髪」は
僻地水辺の被統治階級の風俗であり、この風俗をもつものは、絶
対に天子のような統治者にはなれない、という階級峻別の思想な
のである。

しがって、この文のあと、
荊蛮義之、従而帰之。(荊蛮けいばん之を義とし、従ひて之に帰す)

とあり、荊蛮(會稽の地の原住民)が、この決断を行った太伯の清
潔(清廉潔白)な人格を慕い、これになついた、と書かれているの
である。
だから、この説話からすると、周代にはすでに、會稽水辺の民に
「文身・断髪」の風習が存在していたことが示唆されている。

逆に、この『史記』の記事から、周代の王侯も「文身・断髪」する習
癖をもっていたのだ、との考えは、全くの逆立ちの理解というほか
ない(以上、古田氏著『邪馬台国はなかった』より)。】

上記で古田氏は、「呉の太伯」の「文身・断髪」を(貴族階級の中に
復帰することを永久に拒否するための“刻み込み”)と主張し・・・、
「夏后少康之子」の場合を“封於會稽(會稽に王として封ぜられし
とき)”というように・・・、(會稽王)として君臨していたときの話とし
て、双方の次元が完全に違う逆の立場の「文身・断髪」説話だっ
たのでは、と論断しています。

また、通説の場合は次の疑問点が残ります。それは、(夏后少康
の子)といえば、夏の中興の英主として仰がれた夏王 朝六代目の
帝王・少康の子です。時代も「夏王朝」栄華の真っ只中。會稽に赴
任された帝王直属の諸侯、會稽の主(ぬし)である「會稽王」です。

そのような押しも押されぬ盛隆の時代に會稽王としての赴任先で
事もあろうに、何の目的のために海辺の民衆と一緒になって文身
生活ていたというのだろうか・・・、立場上からも まわりの配下から
許されるはずもないでしょうに。
よって、上記、古田氏の指摘から考えつく構図とは・・・、會稽王が
水辺の民に、蚊龍之害から避(のが)れるために「文身・断髪」を
教えていた、と読むのが正しい理解なのではないか・・・と。

また更に、このように議論かまびすしい場面でも尚、古田氏は難
問解決の一策として、文法上から次のように指摘しています。

“以て・・・せしむ”・・、の「使役の用法」が『魏志』全体では多用さ
れている・・・、ということを。
そのよい例として、東夷伝序文の、 “故に其の国を撰次して、其
の同異を列し、以て前史の未だ備えざる所に接せしむ。”・・・を
あげています。)

すなわち・・・、
“以避蚊龍之害”の「以」を使役の用法として“・・・せしむ”、と読み、

“断髪文身を以て蚊龍之害を避けしむ”・・・を、原文直訳として・・、

そして、その口語訳をもう一度・・・。
“蚊龍之害を避けるために断髪文身させる(すなわち、断髪文身
することを教えた)”・・・。ここからさらに詳しく推し進めて、““「夏
后少康の子(““古より、と言っているのだから当然、夏后少康の
子の時代にも倭人は會稽で他の夷蛮の民とともに集っていたか
も知れない、と時代を確定しながら””)が(倭人を含めた夷蛮の
民に)教えた時の文身は、確か「断髪文身」だったはず。それが、
今、目の前にいる倭人は「「断髪文身」から進化を遂げ、「黥面文
身」と変化し、その風俗を陳寿の今、に伝えている””・・と、風俗の
一面の変化状況から倭人と中国王朝の長いおつきあいの歴史を
端的に物語ろうとする記述、・・・として読めるのでは。

そして、次の今ページクライマックスシーンの一節、(二)≪計其
道里、當在會稽東治之東。≫
に入ります。

この一節がわたしにとっての今ページ最難問。

これまでも難問だらけの今ページでしたが、わたしの目的の“14
C測 定値と倭人伝”の道程も、すぐそこにあるように見えますが、
この一ページでは収まりきれま せん。・・なので、つぎに譲ります。

・・・ということで、
大変長らくお待たせ(待ち人も居ないか?)の公開です。

次ページもよろしく・・・、また即、お会いしましょう。・・・では。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
14C測定値と倭人伝・・・(1) ハナサンピン/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる