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zoom RSS 「歴博」による14C測定値の発表(2003年)−2

<<   作成日時 : 2013/10/09 06:01   >>

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前々ページの歴博の14C測定値の発表は勇気ある態度に見え
ます。偶然なのかも知れませんが、少なくとも邪馬台国派を名乗
る人たちの中では抜きん出て王道を行くグループに見えました。

古田氏は言っています・・・。
“兵庫県芦屋市夙川の辰馬考古資料館へ行きました時の、帰り
 の光景です。銅鐸の展示があり見に行きました。駅まで歩いて
 帰るのに十分ぐらいかかります。帰りがけに十数名の集団と、
 期せずして一緒に、駅に向かって歩くことになりました。盗み聞
 きするつもりはありませんが、公道での会話ですから自然に一
 団の人々の会話が聞こえてきます。一団の中心にいる年輩の
 人に向かって、若い人が尋ねて話題を出しました。今放射性炭
 素年代測定が行われていますが、あれは信用できるでしょう
 か。 一団の中心にいた人はにべもなく、あんなものは相手に
 してはいけない。あれを信用しているようでは学問と言えないと
 答えました。その後駅に着くまで、えんえんと皆で放射性炭素
 年代測定の悪口を喋っていました。それは京大の考古学関係
 の学者でした。わたしは偶然後ろから、公然たる盗み聞きをす
 る形となりました。このような雰囲気なのかと感じました。
  二番目に記憶にあるのが、十数年前。博多と太宰府の間にあ
 る福岡県春日市で講演した時です。講演の前でしたが、一人の
 方が面会されて放射性炭素年代測定について、いかに信用で
 きないか力説された。わたしは、いやそんなことはない。この放
 射性炭素年代測定法に長所もあるが短所もある。しかしこの放
 射能測定の値を問題の基礎として考えなければならない。問
 題があればその都度調べれば良い。そのように言いました。し
 かし彼はそこであきらめず、外国の学者などの名前をあげて、
 いかに放射能年代が信用できないか、講演の二・三分前まで、
 しつこく食い下がってわたしを説得しようと試みられました。わ
 たしはへきえきし、そんな話は講演の後にして下さいと言ったこ
 とがあります。”

・・・、と、このように(これから述べる鷲崎弘朋氏と同様)、近畿説
九州説を問わず邪馬台国派を標榜する学者達の猛反対の世論
の中での発表です。これを勇気ある行動と言わずして何んと称す
ればいいのだろうか。
思うに、清水の舞台から飛び降りるような決断だったのではない
か。ある意味アッパレな態度と見るべきと思っています。

これに対し、とあるサイトで鷲崎弘朋氏は、「歴博」の14C年代測
定結果とその検証に対して幾多の図を示しながら、14C測定法
と年輪年代法についての危うさをつぎのように批判しています。
私なりに問題と思えるところをピックアップして、鷲崎弘朋氏の論
評をまた更に批判検証したいと思います。

A、法隆寺五重塔の心柱に関して述べています。

奈良県斑鳩町の法隆寺は607年に創建されたが、670年(『日本
書記』天智9年)に全焼し、現存する五重塔は7世紀末〜8世紀初
の再建とされる。ところが1986年の年輪測定で心柱の最外年輪
は591年の形成、また2001年には新たに3層の最外年輪の確認
で594年伐採と鑑定され、再建記録と約100年の狂いを生じた。
五重塔が1941年〜1952年に解体修理が行われたさい、心柱か
ら厚さ10センチメートルの円盤標本が切りとられ、京都大学に保
管されていた。この心柱は直径82センチ・全長32メートル(18mと
14mの2本を継ぎ足し)・年輪354層の八角形のヒノキ材で、2001
年のX線撮影で辺材巾が3.6センチも残っていることが確認され
た。
また西岡秀雄氏が1952年に年輪を始めて計測した際、最外周に
少し樹皮が残っていたことも確認されている。樹齢200〜300年の
ヒノキの平均辺材巾は3センチである。これにより、心柱は樹皮
直下の年輪まで残っているものと判断された。

この記録との100年の狂いは、誰しも説明に苦慮している。光谷
拓実氏自身は、「古材の利用」や「他の建築物からの移築」など
の『多くの新説を期待するのみ』とするが、そのような兆候や証拠
は現在まで全く現れない。直木孝次郎氏は「7世紀初ごろに建て
られた寺が後に廃寺になって、その心柱を転用したと考えるしか
ない」、また鈴木嘉吉氏は「心柱というものは、元々転用して使う
ものではない」と転用説を否定した上で「貯木場に原木を100年間
そのまま置いていたと考えるしかない」、更に梅原猛氏は「596年
建立の日本最古の寺である飛鳥寺の五重塔の心柱を、法隆寺
再建の時に使用したのではないか」とする。しかし、いずれも説
得力に乏しい。このような状況では、結局、和田萃氏のように「悩
ましい問題が起きた」、とせざるを得ず未解決のままである。
ここは簡明に「年輪測定のモノサシに100年の狂いがある」、とす
るのが妥当ではないか。

B、卑弥呼の時代を代表して、奈良県纏向「石塚古墳」・「勝山古
墳」(AD200年頃)などについて述べている。

1989年、石塚古墳の周濠から出土したヒノキ板の伐採は(177年
+α)と判定された。残存辺材部(2センチ)の平均年輪巾が0.58
ミリからすると、伐採年はどうみても200年以前となる(195年頃説
が有力)。また2001年には、勝山古墳の周濠から出土したヒノキ
板は199年+αと判定された。残存辺材部(2.9センチ)からすると
伐採年は199〜210年となる。 

石塚古墳・勝山古墳のヒノキ材は、周辺の濠の底から発見され
た。古墳の周辺の遺物はさまざまな可能性があり、築造時期と
直結させるのは危険である。石塚古墳は周濠から多数の木材・
木製品が出土したが、伐採年代を特定出来たのは既述のヒノキ
材ただ1点である。この石塚古墳からは埋葬施設・人骨・副葬品
は何も出土せず、また第二次大戦中に防空施設として高射砲陣
地が築かれた時に削られたが、やはり何も出土していない。
また勝山古墳周濠からも約200点の木材・木製品が出土したが、
伐採年代を特定出来たのは、同様にヒノキ材ただ1点である。
そもそも、古墳の盛土や周濠から出土した土器・木片は参考程
度の試料価値しかない。仮に、あなたの家の庭から1000年前の
土器が出土した場合、「それ以降の新しい土器が無いから自分
の家は1000年前に建築された」、と主張しますか?。
日本を代表する考古学者の寺沢薫氏すら、『「土器などで(古墳
の)年代はわからない」とか「布留〇式など信用できない」といっ
た古墳研究者の無責任な放言も耳にする。古墳時代研究は前途
多難だ』と嘆いている
(『最新邪馬台国事情』1998年、白馬社刊)。

最近は勝山古墳の築造を260年頃とする考古学者も多いが、これ
は周濠から出土した「布留〇式」土器を最も古く見て260年頃とす
るからである。
もし、勝山古墳の築造を200年頃とすれば、「布留〇式」土器との
関係では従来通説から100年以上、最近の通説からは80〜100
年、年輪年代法の影響を受けた最新の土器年代論からで(60〜
80年)の乖離で、ここでも『100年問題』が生じる


C、また、奈良県以外の大阪、滋賀の場合・・・、
滋賀県二の畦・横枕遺跡、大阪府池上曽根遺跡の例を上げて
論証している。

1995年、守山市「二の畦・横枕遺跡」の井戸Aのスギ材は紀元前
60年、井戸Bのヒノキ材とスギ材はそれぞれ紀元前97年の伐採
と判定された。出土土器は弥生中期末の第W様式後半で、当時
の通説では紀元後50〜100年である。従って紀元前97年伐採は、
土器年代とは150〜200年の乖離を生じたが理由不明のまま放
置された。

翌1996年には、和泉市と泉大津市にまたがる池上曽根遺跡のヒ
ノキ材が紀元前52年の伐採と判定された。この池上曽根遺跡は
弥生前期から中期を中心とした大環濠集落で、中期の中頃から
後半に最盛期があり、出土土器は弥生中期末の第W様式後半
で紀元後50〜100年の遺跡と見なされていた。しかし、大型木造
建物の柱(ヒノキ材、年輪248層)は紀元前52年の伐採と判定
され、通説より100〜150年も繰り上がった
この建物は、同じ場所で三度四度と建て直されたことが調査で
明らかになっている。
しかし調査報告では・・・、
@木材を運搬する時のイカダ穴が柱根に残っていた、再利用で
 あれば腐りやすい根っこは切り取られ普通はイカダ穴が残る
 ことはない。
A当の大型建物の前に建てられていた建物は、もっと小さな柱
 材を用いていた、ことが判明し再利用の可能性は極めて低い
 とした(大阪府文化財センターの秋山浩三氏)。
従って、池上曽根遺跡の「100年の狂い」は・・・、
@″土器年代を通説より100年古く考える。
A″年輪年代法のモノサシに100年の狂い。
B″可能性は極めて低いが100年前の古材の利用、のいずれか
   である。
最近は、年輪年代法が正しいとの前提で「@土器年代を通説よ
り100年古く考える」とする考古学者も多いが、時期尚早である。


D、紀元前三世紀頃の大型建物の柱根に関して述べている。

兵庫県尼崎市「武庫庄遺跡」の大型建物の柱根が紀元前245年
の伐採と判定された。この柱根は年輪617層のヒノキ老樹木で辺
材部が2.6センチ残存し、しかも年輪密度が極めて高いことから
辺材部はほぼ完存しているものと見なされ、伐採は前245年に限
りなく近いと判定された(2000年)。建物は建て替えられた跡がな
く、出土状況から見て古材再利用の可能性は低い。
しかし光谷拓実氏は、「この結果は、(同時に出土した)土器の年
代より約200年も古い。この年代差をどう埋めていくのか。実に頭
のいたい問題を投げかけた事例の一つである」
とする。
最近の『弥生時代の実年代』(2004年)および『弥生時代の新年
代』(2006年)でも、「この大きなギャップ(年代差)は何に起因して
いるのか、つぎの池上曽根遺跡の場合と同様、(弥生の暦年代
を考えたとき)実に大きな問題」と述べ、未解決のままである。
同様に、岡山市南方遺跡から出土した3点のヒノキ材は、紀元前
243年、前248年、前270年と判定された。同時に出土した弥生中
期第V様式の土器年代とは200年の狂いがある

最近の考古学は、年輪年代法に合わせ近畿地方の弥生土器を
古くする傾向がある。しかし、弥生中期第V様式は100年古くす
るのが精一杯で、200年も古くする考古学者は誰もいない。そう
すると、武庫庄遺跡と南方遺跡は年輪測定が正しい場合でも、
「土器を100年古く+100年前の古材の合計200年」となり、いず
れも100年前の古材となる。
最新の動向を見ても、橋口達也氏は季刊『考古学100号』(2007
年8月)で、武庫庄遺跡の年輪測定に疑問を呈している。すなわ
ち、第V様式の武庫庄遺跡を紀元前245年とすると、続く第W様
式の始まりは紀元前200年頃の前漢初期となる。従って、『(近畿
第W様式が)北部九州の中期後半と並行関係にあったとしても、
W様式初頭の年代が紀元前200年頃とすれば前漢初期にあた
る』、とすれば『北部九州の中期後半(前漢初期)の甕棺から前
漢後半の鏡が出ることなどあり得ない
』、と時代の逆転(タイムマ
シーン)を指摘している。

A・B・Cをまとめてつぎのように結論付けている。
以上、古代の9例について年輪測定の矛盾を示した。すなわち、
@弥生時代の4例(二の畦横枕遺跡・池上曽根遺跡・武庫庄遺
 跡・南方遺跡)は土器年代と100〜200年の乖離。
A古墳時代の2例(石塚古墳・勝山古墳)は古墳時代開始が従
 来通説と100年の乖離。
B飛鳥時代の3例(法隆寺・法起寺・元興寺)のすべてが記録と
 100年の狂いと分った。
古代は、年輪年代法のモノサシの「100年の狂い」で統一的に説
明できる。

F、特に問題は、飛鳥時代の3例(法隆寺・法起寺・元興寺)で
ある。
年輪年代法が正しければ、これら3例は全て「100年前の古材」と
しなければ記録と整合性が取れない。そうであれば「古代は古
材使用だらけ」になり、飛鳥時代より更に前の「古墳時代の開始
時期」・「弥生時代の土器年代」を、年輪年代法を頼りに「100年
も古く遡らせる」のは、とうてい容認できない。

<この赤文字文の中の鷲崎氏が主張する要点が込められてい
る>。

ここで鷲崎氏は下図を示しながら、つぎのように述べています。
・・・・<600〜650年の間で、標準パターンの100年の狂い(重ね
合せの失敗)の可能性を示唆した。ここで、更に絞り込み630〜
650年の間で100年の狂いが生じたと仮定し、測定値の640年以
前を全て100年補正し、表4として示す>。
その(表4)です。
画像



















・・<以上の表4から分るように、640年以前を100年補正すれば、
全ての事例で明快な説明が可能である。逆に、標準パターンが
古代でも正しいとすれば、640年以前の遺跡・建造物は全て100
年前の古材利用としなければならない。古代において木材は貴
重品であるが、遺跡・建造物が100%古材利用などとは考えられ
ない。一体、新材はどこに消えたのか、古代では新材の遺跡・建
造物は存在しないのか(筆者の感覚的判断では、古代において
も古材利用は20〜30%止まり)。この事実からして、標準パターン
の古代は「100年の狂い」の可能性が強く、ここで指摘した問題点
を含め、基礎データから徹底した再検証が必要である>。・・・、と
表4について解説している。

さらに・・・、
炭素14年代法と年輪年代法のお互いの連動関係の中で百年遡
上の矛盾を立証しようと試みています・・・。

池上曽根遺跡のヒノキ柱根は年輪年代法で紀元前五52年の伐
採と判定された。歴博はこの柱根を炭素14年代法で測定したと
ころ、紀元前40〜80年となり、年輪年代法と一致したとする。
しかし既述のように、炭素14年代法はもともと誤差が大きいのみ
ならず、日本では「海洋リザーバー効果」の影響で、やや古めに
出る傾向がある。
池上曽根遺跡は大阪湾の海岸地帯にあり、付近の樹木の炭素
14濃度が古い測定値を示している可能性がある。
一方では、日本の年輪年代法の古代は「100年の狂い」の可能
性が強いことは本稿で指摘している通りである。従って、炭素14
年代法・年輪年代法ともに古い方に狂っている可能性が強く、狂
ったモノサシ同士を比較して「一致した」と喜ぶ状況ではない。


また、INTCAL(「北半球」世界規準)との比較で次の例をあげて
批評している。
箱根芦ノ湖のヒノキ(西暦80〜150年の期間、30〜40年ほど
 古く出ている) 
トルコの木材(紀元前800〜750年の期間、60年ほど古く出てい
 る)  
中国長白山の樹木(西暦1050〜1150年の期間、平均50年ほど
 古く出ている) 
中国戦国墓など(中国の晋墓、戦国墓などで50〜440年ほど
 古く出ている)  
鳥海神代杉(紀元前610〜540年の期間、30〜50年ほど古く出
 ている)  
歴博の九州弥生早期・前期のデータ(紀元前750〜450年の期
 間、50年ほど古く出ている)  
歴博の九州弥生中期・後期のデータ(平均100年以上古く出て
 いる)  
屋久杉(146〜1856年の期間、平均38年古く出ている)
≪この赤丸8点のINTCALとの差は(九州弥生中期・後期のデー
  タを除いて)殆ど30〜50年となっていますが、私が考えるにそ
  れは誤差の範囲と考えても良いのでは≫
  

以上、鷲崎弘朋氏の“「歴博」の14C測定法によって得られた年
代値の発表”に対する批判の要点を掲載いたしました。

更に、要約するために赤文字を列記しますと・・・、
▲法隆寺五重塔心柱について。
<年輪測定のモノサシに100年の狂いがある>

▲石塚古墳・勝山古墳では、
<(60〜80年)の乖離で、ここでも『100年問題』が生じる>

▲二の畦・横枕遺跡については、
<150〜200年の乖離を生じたが理由不明のまま放置された>

▲池上曽根遺跡については、
<通説より100〜150年も繰り上がった>

■また、池上曽根遺跡をまとめて、
<従って、池上曽根遺跡の「100年の狂い」は・・・、
@″土器年代を通説より100年古く考える。
A″年輪年代法のモノサシに100年の狂い。
B″可能性は極めて低いが100年前の古材の利用、のいずれか
   である。>
そして、<最近は、年輪年代法が正しいとの前提で「土器年代を
通説より100年古く考える」とする考古学者も多いが時期尚早で
ある>

■鷲崎氏が百年遡上説の一番の切り札とする法隆寺の問題に
触れています(法隆寺問題以外はすべて土器年代に対する百
年遡上だから、確実に我々にその矛盾をハッキリ示すことのでき
る事例は文献記述との比較のみであるから)。

<特に問題は、飛鳥時代の3例(法隆寺・法起寺・元興寺)であ
  る。年輪年代法が正しければ、これら3例は全て「100年前の
  古材」としなければ記録との整合性が取れない>

そして、最後の総まとめとして・・・、「歴博」が一番知りたがる邪
馬台国の位置を、14C年代法(年輪年代法も同列扱いにしなが
ら)で探ろうとする「非」を鷲崎氏は痛烈に批判して(a)、(b)を上
げている・・・。
 
(a)「炭素14年代法/年輪年代法と邪馬台国論争」について・・。

古墳時代の開始は従来通説では300年頃とされてきた。これを
一挙に100年も繰り上げ200年頃とし、邪馬台国畿内(大和)説の
決め手とされるのが年輪年代法である。
しかし、年輪年代法の古代での科学的妥当性はまだ検証されて
おらず、また古材の再利用の可能性をこれだけ指摘されている
現状では、古墳時代の始まりを従来通説より100年も古くするの
は極めて問題である。
畿内説の三大根拠の「箸墓」「三角縁神獣鏡」「混一彊理図」が
空洞化しつつあった状況下で、救世主として登場したのが年輪
年代法である。
また、歴博は炭素14年代法によって、箸墓=卑弥呼の墓と結論
付けようとしている。

(b)その「歴博」による(箸墓古墳=卑弥呼の墓)理論を批判して。

奈良県桜井市の箸墓は全長280メートルの最古式の巨大前方後
円墳で築造は300年頃とされ、卑弥呼の墓とは関係無いというの
が通説であった。しかし、年輪年代法により古墳時代の開始が
通説より約100年繰り上って200年頃となり、箸墓も250年頃へと
約50年古くして卑弥呼の墓の候補として急速にクローズアップさ
れている。また、今回は歴博が炭素年代14法で、箸墓周りの溝
から出土した土器付着炭化物を3世紀中頃とし、(箸墓=卑弥呼
の墓)と結論づけようとしている。・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・。
考古学的にも、
@箸墓築造は従来通説では300年頃で卑弥呼が死去した247〜
  248年とは50年の開きがある。
A1995年に前方部周辺より「布留〇式」土器が出土し、橿原考
 古学研究所は同古墳を3世紀後半(280〜300年を想定)の築
  造と発表したが、これでも卑弥呼が死去した3世紀前半には届
 かない。
B箸墓は全長280メートルで卑弥呼の「径100余歩の冢(ちょう)」
  とするには巨大過ぎる。このため、当初は円墳(円丘)で後に
 前方部が付加され、「径100余歩」とは直径155メートルの後円
  部に相当するとの説が出された。しかし1998年の発掘調査で
 周濠と渡り堤の状況等から当初より前方後円墳として築造さ
  れたことが明確になった。

・・・など等、鷲崎氏は、14C年代法を含む年輪年代法は約百年
の狂いが生じているとして、古代(特に卑弥呼の時代)の歴史を
解くには有効なカギとはなり得ないのでは・・・、と、明確に否定的
な捉え方をしています。

・・・・・・しかし、私の場合は違います。

私が最初にこれら鷲崎氏ご提示のデータを見たとき直感的に感
じたのは・・・、そうです!・・・まるで百年そこそこの古い年代へと
判で押したかのように似たか拠ったりの年代値。この似たか拠っ
たりの数値に何か意味があるのではないか。・・・ということに気
付かされたのです。

問題はこの同じように百年古い傾向を示すデータをどう見るかに
掛かっているのでは・・・と。

鷲崎氏が批判の対象とする(キーポイントの時期)600〜650年
の間の建造物に関する百年の狂いを示す(表4)について、私か
ら批判のコメントを一言。

・・・(表4)をご覧になるとお分かりいただけると思いますが・・・、
文献記述と年輪年代法の完全に整合性を持たないとして上げら
れたのは(法隆寺五重塔心柱)と(法隆寺三重塔心柱)、それに
(元興寺禅室)の三点だけです。
残りは全て多少の誤差範囲内にあり・・・と考えれば、何となく整
合性保持の原則内とも言えるのではないでしょうか。
もう一つの(法起寺三重塔心柱)に関しても、法隆寺五重塔の心
柱は2.5mもあるヒノキの巨木を四つ割りにして使用していると云
われる特殊な木材です。・・・であるなら当然、法起寺三重塔の心
柱も同じような呪術的概念で建立したものと考えてよく、(光谷拓
実氏)の測定値に対し、間違えの立場に放り投げるのは危険の
ような気がします。一方的に過ぎていないでしょうか?。
そして、(元興寺禅室)に関しても、五重塔や三重塔のようなシン
ボリックの建造物と違い、アチコチの古材を寄せ集めの建造物と
しての可能性も考えられます。にもかかわらず、これらすべてを
年輪年代法によって得られた(光谷拓実氏)の数値を間違い扱い
するのは即断のし過ぎではなかろうか。

そして、その(表4)のパターンの年代値のズレを平行移動して卑
弥呼の時代にも適用し、そのズレの存在の証明とするには、次
のような疑問を持たざるを得ません。
・・・、それは、
一方は有史の時代、もう片方(卑弥呼の時代)は400年もの掛け
離れた考古学の時代(石塚古墳〔全長96m〕や勝山古墳〔全長11
0m〕の例をあげています)に百年遡上論で一括処理し、双方の
年代のズレを同等扱いするのは、想像の域を超えない論法とい
ってもいいのでは。

このように、七世紀以降の金石文や歴史書のように明確な対象
物が存在すれば、それに対する時期のズレの比較論議は一目
瞭然、誰にも一目で見え比較的論議はし易いでしょう。
しかし、文字記録も金石文ない(銘文入り銅鏡を除く)考古学的
年代に対する時期のズレはどのように比較すればいいのだろう
か。これまではご存知のように堂々廻りの論議に終始して決着
が付かないままとしてきたではないか。

従来の弥生・古墳についての編年は、私見の入りやすい土器に
よる年代判定に頼らざるを得なかった。
そして、その大もとの年代判定は(冨岡謙蔵氏による)銘文入り
の銅鏡、それらの鏡の様式からくるものであった。
ところが、その冨岡謙蔵氏よって確立された年代判定にも疑問
を呈する学者が多く出るようになり、素人の私も何時かのページ
で述べたように、その年代判定の理論は砂上の楼閣状態、いい
加減な論理であることも分かりました。
・・・そのように不安定極まりない考古学的年代法で、20、30年の
ズレの議論をするのは、これまた堂々廻りの論戦に終わるのみ
でしょう。
そのイキサツを詳しく知れるのが下図五氏による弥生時代細分
化案です(下にその図を示しておきます)。
その五氏による弥生の細分化案は弥生期の前三世紀の時点は
どのような考え方で捉えているのか完全に一致している。
それが細分化の段階に入るとそれぞれ、ある時期を引き延ばし
たり縮小したりと、またW期〜Y期までといろいろな区切り方を
して・・・、これも何を根拠にしているのか、好き勝手な細分化案、
なんのための細分化なのでしょうか、私にはその意味がよく分か
りません。
これをご覧になると、それぞれ好き勝手な議論を飛び交わしてい
ることがよくお分かり頂けるとおもうのですが、この弥生時代細
分化案を根拠にして論議するのは如何なものか。

その弥生時代を五氏による細かく区分した比較図です。
下図についても私からコメントをひと言のご提言を。
画像(左図をご覧にな
ればお分かりの
ように、弥生前期
の出発点につい
ては、何故か同じ
前三世紀としてい
ますが、そこから
がそれぞればら
ばら、好き勝手に
弥生時代を細かく
区分して比較論
議をしている。そ
れもあるを時期を
引き延ばしたり縮
めたりと、何を規
準にしてそのよう
になったのかも
伺い知れない。
そもそも、前三世紀の時点はどのような時代を言うのだのだろう
か。
また、どのような歴史が繰り広げられていた時代をいうのだろう
か。
それに応えてくれた人はこれまでは誰ーれもいない。

その上、図の五氏は同じ遺跡についての考察であったのだろう
か。同じなら議論のし甲斐があります。
しかし、もしそれぞれが違う遺跡についての考察であったならど
うなるのでしょうか。

このように、点デンバラバラの法則をもってして、土器様式で20
年、30年の細区分が可能なのでしょうか。
その論拠の説明はどうなっているのだろうか。
全てがよく分かりません。

再度念を押しますが・・・、同じ領域でも山ひとつ越えたり、谷を
隔てたりと、(あちら)と(こちら)とでは、それぞれの生活様式も生
活習慣も異なります。そして、その違いにより、たとえ同じ土器同
士でも、その土器の存続期間に差異が生じてくるのも当たり前の
こと。
こんなことも弁えずに、そのように違う地域の同じ土器を、“全部
(十把一 絡げ)にして”、同一様式の土器であったなら同じ時代
に作られたとの概念は科学も理論も何もない、想像の域を出な
い議論にみえて仕方ありません。これが上図に対する私の寸評
です)

トータルとして私が言いたいのは・・・、
鷲崎氏が(特に・・、として強調する)飛鳥時代の3例、法隆寺・法
起寺・元興寺、のこの内、さらに、法隆寺五重塔心柱の件の特異
性を、さも鬼の頸を取ったかのように、そのパターンをこれまで述
べてきた考古学的時代の金石文のない、細かく時間を区切るこ
とのできない曖昧な古代まで適用して説いているのに多くの疑
問を感ずるところなのです。

結局、鷲崎氏は、古墳時代の始まりを従来の編年通りの(三世
紀末〜四世紀初頭)に戻し、箸墓≠卑弥呼の墓、ということを言
いたかったのだ・・・いや、決してそうはならない・・・と念を押して
弁舌しているようにも見えました。

問題は、(箸墓≠卑弥呼の墓)を証明する方法論にあると思って
いるのですが。

鷲崎氏もサイトの冒頭でも・・・、 “もし箸墓が3世紀中頃の築造
であれば、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ということになり、長年
の邪馬台国論争は畿内大和説で決着ということにもなる”。また、
“畿内の古墳が200〜250年築造となれば、邪馬台国論争はそこ
で終わり”・・・など等言っておられますが、どうしてそれで決定と
いえるのでしょうか。

・・・そもそも卑弥呼という名はどこから生まれた名前なのでしょう
か。記紀にその名を見つけることができますか。それらしき人物
(神功皇后)を『書記』に登場させ、さも畿内に存在したかのような
記述はありますが、ハッキリと卑弥呼という名の人物はどこにも
登場していません。その名は、外国の史書、『魏志倭人伝』にの
み登場する人物名称(卑弥呼を名前と断言できないから名称と
しました)です。
・・・それを『倭人伝』の記述を当時の歴史的背景の吟味も適当
に解釈して、卑弥呼の死亡年のみを記述から取り出し、考古学
的検証ののみの世界へ引っ張り込み、卑弥呼の居所を探そうと
するのはナンセンス極まりなく、無理というものでしょう。

鷲崎氏もサイトで・・、 一方では、〔「土器などで(古墳の)年代は
わからない」とか、「布留〇式など信用できない」〕などと、寺沢薫
氏の言を引用しながら、それまでの土器編年を否定的な捉え方
で論証をし、また違う場面となると、否定的な土器編年を肯定的
に捉えて議論をする・・・、というように、一体どちらに軸足を置い
ての解釈しているのかよく分からず、便宜的な発言に終始してい
るようです。

しかし、いみじくも氏の論証から浮かび上がってくるのが、(弥生
期から7・8世紀の法隆寺の件まで)およそ百年古く出る数値で
す。

この百年の狂いを鷲崎氏は年輪年代法の不完全さからくるもの
と仮定の上で論証していますが・・・、私の場合は鷲崎氏とは違
い、あの横並びの百年古く出る傾向のデータは、その対象とな
る土器編年の方に間違いがあるのでは・・・と考えてみました。

そう!鷲崎氏と反対に、14Cと年輪年代法はそれほど間違いは
ないのでは、むしろ史実に添った近似値を示していたのではない
か・・・と。

それを裏付ける有力な証拠となる著書があります。
鷲崎氏が、切り札として一番のキーポイントとして上げられた、上
記の法隆寺五重塔心柱の件については、(1991年初版の)米田
良三氏による『法隆寺は移築された−大宰府から斑鳩へ』の著
本にハッキリ記されていたのです。・・・そうです!・・・「心柱は移
築された」・・・と(次ページあたりに後述)。
すなわち、他所からの移築であれば594年伐採は事実であり、し
かも『日本書記』記述とも完璧に整合性がとれているのではない
か。

また、そのようになれば、この法隆寺五重塔の心柱の矛盾を論
拠にしてそれを(錦の御旗にした)、“年輪年代法は(飛鳥以前は
すべて百年古く出るから史実に合わない)という論証が間違いで
はないか・・・と。

この本の中で米田良三氏は、つぎのように云っています。
“一般的に木造の建物は解体して、再び同じ材料で建て直すこ
とが可能である。
例えば明治村(愛知県)の建物は別の場所に建っていた建物を
解体し、明治村に部材を運んで建て直したものである。木造建築
には、このような移築と、もちろん新しい材料で建てる新築とがあ
る。問題の法隆寺は建立されてからすでに千三百年が過ぎてお
り、建立時に新築された建物か、移築された建物かは観察者の
目だけでは判断し難い”。また、・・・・・・・・中略(建築部材が専門
用語で分かりにくいので省いて後述しますが)・・・・・・“以上四点
(の考察)によって、金堂が移築されたと言える。金堂と五重塔が
移築されたことがわかったことから、金堂、五重塔と同時に建て
られたとされる中門及び回廊も、同じように移築されたことは疑え
ないであろう。”
・・・、と云われているように、他所からの移築であれば、594年伐
採も日本書記記述とも整合性を保ち、実際の伐採年としても成
立させることができます。

・・・、と、これらの事実が告げることは・・・、
下の図で示すように、Aグループの法隆寺が670年に全焼したと
いうことに対し、それ以前(594年)に伐採された五重塔心柱が残
っているということは理に合わない)という理論が間違いであるこ
とが分かり、またその百年遡上の矛盾のパターンを四世紀〜五
世紀にも平行移動させ、その矛盾を解くカギとはなり得ないとい
うことも明らかとなったようです。

また、「歴博(国立歴史民俗博物館)」のねらい目の、(私の目に
は少し姑息にみえて仕方ありませんが)、“纒向古墳群(の中でも
特に箸墓古墳)を卑弥呼の墓と見立てようとすることに対する”、
再批判も無意味と化しました。
“箸墓古墳を卑弥呼の墓と見立てている”ことは、「歴博」が宮内
庁の許可を得て箸墓古墳に勢い込んで立ち入り調査した事実が
あって本当のようにもみえますが・・・、鷲崎弘朋氏のこれらの批
判的な論旨は、も少し王道を行く気分の「歴博」の行動を根気よ
く眺めているのもいいのではないか。

ここで、も一度、原点に立ち返って・・・、
なぜ、「歴博」も鷲崎氏も箸墓古墳にばかり気を取られているの
でしょうか。
前言で・・・、鷲崎氏も・・・、“もし箸墓が3世紀中頃の築造であれ
ば、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ということになり、長年の邪馬
台国論争は畿内大和説で決着ということにもなる”。また、“畿内
の古墳が200〜250年築造となれば、邪馬台国論争はそこで終わ
り”・・・などと、双方とも近畿にのみ卑弥呼の居場所を求めるしか
ない論証。なんとも理解しがたい。

なぜ、畿内の古墳が200〜250年築造となれば、邪馬台国論争は
そこで終わりだ、などと結論付けることができるのでしょうか。
・・鷲崎氏が総論の中で、いみじくも述べているように、““弥生時
代の九州は銅剣・銅矛の武器=戦いの文化に対し、近畿は銅
鐸=祭りの文化で平和的である。””、のごとく、祭祀文化にハッ
キリ違いがあることを述べています。
ところが、その銅鐸については、畿内文化の集大成たる、『日本
書記』や『古事記』には載ってはいませんが、『続日本紀』や『扶
桑略記』にはちゃんと次のように載っています。
““(和銅六年:713年)丁卯。大倭国宇太郡波坂郷の人、大初位
  上村の君、東人、銅鐸を長岡の野地に得て、之を献ず。高さ
  三尺、口径一尺。其の制、常に異にして、音、律呂に協(かな
  ふ。
所司に勅して之を蔵めしむ。””
        ・・・・・・・・・・・・・<『続日本紀』(巻九.元明天皇)>
また、
““(天智)七年戊辰(668年)正月十七日。近江国志賀郡に於て
  崇福寺を建つ。始めに地を平らかならしむ。奇異の宝鐸一口
  掘り出す。高さ五尺五寸。又奇好の白石を掘り出す。長さ五
  寸。夜、光明を放つ。
        ・・・・・・・・・・・・・<『扶桑略記』(―平安末、皇円撰、
  1094年以降成る――第五)>
・・・というように、特に『続日本紀』では、ヤマト管轄領域で自分
達の祭祀と全く関連のない、畿内の野地でたまたま見付かった
銅鐸を(音、律呂に協ふ)などと、旋律を奏でる楽器として認識
のもと、畿内政権(大和政権)の倉庫に保管した・・・という件の
文章です。
このことは、大和政権では知らぬ存ぜぬの楽器であることを認
めた上で・・・・、畿内には大和政権以前には別の政権、すなわ
ち銅鐸を祭祀とした国家の存在をハッキリ滲ませた記述とも考
えられます。

 その大和政権以前の国家は三世紀初頭から卑弥呼の時代
 (250年頃)まで近畿領域に勢力を張っていた(銅鐸を祭祀とし
 た)王国の末裔の領域と考えられます。まさにその領域の王
 が造営した古墳であったかも知れない。または、その銅鐸王
 国を滅ぼした神武の末裔達が(過去の自分達の祖先の〔神武
 東征〕の繰り返しを予想、それを危惧して、古墳時代の九州王
 国の襲来に対する)防衛のために造営した古墳であったかも
 知れません。
 そのような古(いにしえ)の由来のある領域の古墳を、外国の
 文献(『魏志倭人伝』)にのみ登場する人物、卑弥呼を引っ張り
 出し、その人物の墓として無理やり(あてはめ)論証している
 鷲崎氏の「歴博」に対する批判はいかにも短絡的、何かの見
 過ごしのご自身に気がつかれていないようです。
 みなさんはいかがお思いになったでしょうか。

以上、前ページから両論を対比しながらの検証でしたが・・・・、
鷲崎氏による幾多の参考図や表(このページには載せませんで
したが、実際はこれら以外も多数掲載されています)を駆使しな
がら綿密・詳細に吟味・論証には多くの賞賛を贈るに憚りがあり
ませんが・・・、いかんせよ!、双方の照合から浮かび上がって
くるのが「歴博」の14C測定法で得られ年代が弥生早期が紀元
前10〜11世紀まで遡るという驚きの事実です(驚きですが、よく
よく外国の史書を調べてみると、これが本当の史実であることが
わかります)。この発表は、私にとってはまさに青天の霹靂。「歴
博」の14C測定法まさにここにあり・・、に軍配を上げざるを得ず
の結末とあいなりました。

次ページは、これら「歴博」による14C測定法から得られた年代
値・・・、弥生早期初頭が紀元前10〜11世紀まで遡ることの正し
いことを、『論攻』のある一節の紹介からその証明の試みとした
い思っています。

その正しいと思わせる記述は次のページで、・・・ではまた。

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「歴博」による14C測定値の発表(2003年)−2 ハナサンピン/BIGLOBEウェブリブログ
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