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zoom RSS 日本最古の木仮面が見つかった

<<   作成日時 : 2013/06/01 00:58   >>

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2013・5・31の朝日新聞に、奈良県桜井市の「大福遺跡」で日
「本最古の木仮面」が見つかった。という記事が載っていました。
下図がそれです。
画像

















上図の記事によれば、
@“女王卑弥呼の治めた邪馬台国の候補地とされる近くの纏
 向遺跡で出土した例を数十年さかのぼり、国内最古。”・・・。
・・・の文章と、

A邪馬台国が243(正始四年)に中国・魏に「絳青縑(赤と青の
 絹)」を贈ったと記す。今回の分析で、倭人伝に登場する絹が
 国産品だった可能性が出てきた。
・・・の文章との、
この@Aの文章を見た人はおそらく、“纏向遺跡が卑弥呼の眠
る墓である”と想像するに違いない・・・。これは、邪馬台国近畿
説の宣伝記事に見えます。よって、このページはそれへの反論
と・・・、よろしくお付き合いのほどを。

@Aは纏向遺跡と大福遺跡を中心として卑弥呼が統治した領
域と捉えさせ、Aの纏向の国産絹を卑弥呼が中国・魏に贈った
であろう・・ことを決定打として、邪馬台国=奈良・・・への印象付
ける意図が見え見えの記事です。

@の「纏向遺跡」は卑弥呼の「墓」とはなり得ません。
すなわち・・・、
倭人伝に・・・“卑弥呼以て死し、大いに冢(ちょう)を作る、径百
余歩”とあります。
邪馬台国派は、百余歩=150mとしていますが、魏・西晋は短
里で、倭国までの行程を記しています。(短里)の1里=75mで、
(1里=300歩ということから)1歩=25cmとなるので、径百歩
=25mとなり、百余歩≒30mとなるところです。
倭人伝によれば卑弥呼の墓(冢)は約30mとなります。

しかし、纏向遺跡の卑弥呼の墓として考えられている箸墓古墳
は、前方後円墳で全長278m、高さ30mの巨大な古墳です。こん
な巨大な古墳は倭人伝の中ではどこにも記されてはいません。
よって、箸墓古墳と卑弥呼の墓は何の関係もなく、したがって
卑弥呼と纏向遺跡を結びつけようとどんなに努力しても全然関
係のない無駄のコジツケということになります。

A、国産絹が見つかった・・・からといって、どうしてその絹が中
国の魏に贈られた「絳青縑」と云えるのでしょうか?・・・、
北九州では倭(和?)絹も中国絹も「錦」も見つかっているのだ
から。

そして、大福遺跡では、以前、銅鐸が出土しているのだから・・、
卑弥呼の領域と考えるのは難しい。この地域には神武によって
破壊された銅鐸王国の隠れ勢力が生き残っていたのかも知れ
ません(あるいは、破壊される前に土中深く埋め込んだのかも
知れません)。少し早トチリし過ぎた記事ではなかろうか。

邪馬台国(いや邪馬壹国?)といったら即、奈良に目を向けない
で北九州の博多湾岸の山沿いに目を向けたらいかがかな?と。

最後に、国産(大和)絹や木仮面の(14C年代測定法)で正確な
年代を計測したいただければ何でもハッキリすると思いますが、
如何でしょうか。


ただ今、14C年代測定法のデータ収録中です。
次ページをお楽しみに・・・、では。





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コメント(7件)

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ご存知の通り、朝日新聞は従軍慰安婦を捏造して、日本国民を苦しめ続けています。

その上に、このような悪質な「邪馬台国近畿説の宣伝記事」を書くのだとすれば、ハナサンピンさんも許せないことと思います。

もしも朝日新聞をご購読でしたら、すぐに購読をお止めになることをご提案申し上げます。
憂鬱な日々
2013/06/01 10:45
従軍慰安婦の捏造は、私にとっては未解決のテーマです。そのことについては、いろいろ、あまりにも情報が多過ぎて。
もしかして、橋本発言もそのことに遠まわしに言及したかったのでは?。でも違うかな?。・・・どうも頭の悪いハナサンピンにはハッキリしません。

しかし、この新聞記事のように、意図的に従軍慰安婦問題を取り扱うのであれば、それは許せないことです。

もうすこし勉強してハッキリしたら朝日新聞に対して鉄槌を下すことにします。

>もしも朝日新聞をご購読でしたら、すぐに購読をお止めになることをご提案申し上げます。

これも良い考えですね。・・・でも長年のお付き合いがあるから、それも今のところ無理?・・・かな?。
・・・ただ今迷い中のハナサンピンです。

愚かな考え休むに如かず・・・か。

でも、尊い御助言ありがとうございます。
ハナサンピン
2013/06/01 11:56
従軍慰安婦の捏造は昭和58年のことですから、邪馬台国などの情報よりもずっと確かなものかと思います。是非ご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%B8%85%E6%B2%BB_(%E6%96%87%E7%AD%86%E5%AE%B6)

ところで、「14C年代測定法」は専門家によって既に解説されているのでは?。

さて、ハナサンピン説は「魏の使いは卑弥呼に鏡などを贈るために倭国に旅をして、その道すがら、ある時はジグザグ行進をしながら各地を探索した。」ということでした。
その後魏の使いは、倭国特派員として倭国に常駐して、記事を魏に送り続けたのでしょうか?。
たぶん帰国したんだと思います。

そうすると、卑弥呼が死んだ時の情報はどう伝わったのでしょうか?。
その時にも魏の使いがやって来て、卑弥呼の墓の大きさを「魏・西晋の短里」で計ったのでしょうか?。

それともその後何かの用があって魏に渡った倭国の使いとの間で次のような会話があったのでしょうか?。

魏の役人:その後どう?。
倭の使者:卑弥呼が死んだんですわ。墓の大きさは100ですわ。
魏の役人:そっか、結構小さいんだね。
倭の使者:そうですか?。わしは大きいと思うんやけどなぁ・・・。
言うまでもありませんが、この時の長さの捉え方が双方で異なっていた可能性もあるということです。

伝聞の可能性は全く無いということなら別ですが、このように、伝聞の可能性もあります。
だとすればハナサンピンさんの「@に関する論証」は必ずしも成り立たないと思います。
憂鬱な日々
2013/06/01 13:41
>、「14C年代測定法」は専門家によって既に解説されているのでは?。

解説を述べようということではありません。

そうではなく、1996年8月、埋蔵文化財研究会(若手の研究員等の主導)で扱われた、「考古学と実年代」という冊子の中身のデータを収録をしようとしているのです。

聞くところによると・・・、
この冊子は、市販はされず、一般人の目には触れることのない、当研究会時に5000部ほど作られ全国各地の自治体に配布されたといわれる、(私がそれを目にした時はかなりぶ厚い)「考古学と実年代」というタイトルの資料集です。

この内容をみると、これまで積み重ねられてきた土器による編年、鏡の銘文・様式から割り出す年代判定などを常識としてきた理論を根底から覆すようなショッキングなデータが並んでいます。

これまでオーソドックスな考古学を学んで実践されてきた玄人肌の方々には不利な情報開示は、私のような素人探偵団でなければできない業です。

そんなデータを皆様の前に開示しようかと思って収録しているところ・・・、そういう意味です。


ハナサンピン
2013/06/03 15:42
つづきです。
>・・・、伝聞の可能性は全く無いということなら別ですが、このように、伝聞の可能性もあります。・・・・だとすれば「@に関する論証」は必ずしも成り立たないと思います。

陳寿(233‐297)は卑弥呼と同時代史家とはいえ卑弥呼が世を去った後に活躍した人物です。その活躍した時期は(西晋時代265年 〜 316年 )ですから、西晋は魏朝からの禅譲朝廷ということで、その引き継がれた史料を手に持ちながら『魏志倭人伝』が作られたものですから、(倭人伝)実行時の記録も残されていたはずです。加えて、「壹興」の時代も魏に朝貢した記録もあるので、風聞であれ、伝聞であれ、確かに“卑弥呼以て死し、大いに冢(ちょう)を作る、径百余歩”と書かれているのですから、そこは信用していいのではないか。

また、(明帝紀中の裴松之注)に次の文章があります。
“・・・而るに、墳稜崩頽し、童児牧豎(牛飼い)其の上に践蹈(ふみにじる)す。大魏の代を承くる所を尊崇するの意に非るなり。其れ、高祖・光武の稜の四面百歩を表せよ。民をして耕牧・樵採せしむるを得ざれ。”

これは、魏の時代では、「百歩」という広さは、神聖なる旧墓域の標示区域とされていたことを表していて、卑弥呼の国も「径百余歩」で、“アッそうか”・・・と。

これらのことも考慮に入れれば・・・、
卑弥呼の墓が「径百余歩」という表記も頷けるのではなでしょうか。

それらの記録が信用出来ないのであれば・・・、それは、そう!、極論を言えば・・・、もともと『魏志倭人伝』もこの世に存在せず、『邪馬壹国』も『邪馬台国』の議論もこの世にはなかったことになるところです。

よって私は『魏志倭人伝』を信用する一人でなければならない・・・と。

(尚、樵採 =森林 の 樹木 を 斧 などにより伐採して採ること。)
ハナサンピン
2013/06/03 16:39
『風聞であれ、伝聞であれ、確かに“卑弥呼以て死し、大いに冢(ちょう)を作る、径百余歩”と書かれているのですから、そこは信用していいのではないか。』は否定しませんし、それを踏まえた上での可能性を申し上げていますが、お分かり頂けないでしょうか?。

ハナサンピンさんも伝聞の可能性も有りとお考えなのは分かりました。
そうすると、その時(伝聞があった際)の長さの捉え方が双方で異なっていた可能性があるということを申し上げました。

私が先に示したのは倭人と魏人の対話形式ですが、もしかしたら途中に韓の人が入ったかもしれません。

倭人:卑弥呼が死んで1000という大きな墓を作りました。
韓人:そうなんですか。今度魏人にあったらそう言っておきます。
<後日>
韓人:卑弥呼が死んで、墓を作ったそうです。1000なんて大きなことを言っていましたが、せいぜい300だと思います。
魏人:そっか。300は中途半端だし、百歩は墓に関して神聖な文言だから、そうしておくわ。
・・・てな具合に。

上述の対話形式でも採用させていただきましたが、百歩に関するハナサンピンさんの解説は、魏の側が勝手に(あるいは良かれと思って)百歩にした可能性を示す内容で興味深いですね。
つまり、伝聞の可能性があるうえに、百歩が意味を持っている。
そうすると、そのようにして、「本当は大きな卑弥呼の墓が小さく表記されるようになってしまった」可能性は大きいですね。
憂鬱な日々
2013/06/03 18:42
迫真の対話形式で縷々お述べ頂き“お見事!”・・・ありがとうございます。
・・・その会話の中身の可能性をすべて否定するものではありませんが、その否定の可能性を過大評価され過ぎているような気がします。
魏と倭国のヤリトリですから、お互いの意識にそんなにズレはないと思った方が常識的なのではないでしょうか。

魏側の・・・わが国の家臣国の倭国は(魏の様式にのっとった陵墓を作り)“なかなかやりおるわい”の思いの結果の、“「大いに冢(ちょう)を作る」”の表現となった可能性に99%かけたいと思うものです。
ハナサンピン
2013/06/04 07:46

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