ハナサンピン

アクセスカウンタ

zoom RSS 遂に倭人伝の道程が解けた!。―(2)

<<   作成日時 : 2013/05/04 07:12   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

遂に倭人伝の道程が解けた!・・・、の続きの第二弾です。

前ページで、伊都国を一大國すなわち、生の(壱岐)松原に比定
すると、不弥国が定まり、そして大宰府を倭人伝の倭国における
最終目的地とする邪馬壹国の道程が見えてきた・・、ということを
論証してきました。

また、その次いでながら・・・、というか、私の中ではこれまではナ
ゾであった「奴国」の位置も幸いにしてはっきりと見えてくるような
気がして、それをここで述べたい・・・と。

今ページは、その「奴」国の位置についての論証です。

これまでの「不弥国」と「奴国」の位置については、糸島市出版
の常設展示図禄にはつぎのように載っています。
(下図をご覧ください)。
中でも「不弥国」が下の図ようにクエスチョンマーク付きですが、
立岩遺跡のあることで有名な飯塚市までの遠い地に追い出され
た格好で位置比定されていますが、この点が気なって仕方がな
いのです。
倭人伝では、“「不弥国」の南に邪馬壹国あり”となっていること
から引用して立岩遺跡領域を邪馬壹国とする可能性を考えての
ことなのだろうか。
そして今ページ問題の「奴国」の位置については、伊都国の東
南百里ではなく、「不弥国」と同じ「東」方向に博多湾岸を埋め尽
くすかのように漠然として大きく描かれています。これは、グラデ
ーションの始まる入り口までを「百里」と計算しての結果なのだろ
うか。あるいは、「那(奴)の津」からくる須玖岡本遺跡を「奴国」の
中心領域と考えての位置設定なのだろうか。その「奴国」の中心
までを百里とすると、伊都国から考えた場合・・・、百里はなんの
その、その倍近i遠いところに位置比定しているように見えていま
すが、何を考えているのかよく分かりません。
画像













上記の図録は糸島市出版のものですから、この図の考え方は、
九州歴史博物館も共有のものと思われ、現在では一般的な想
像図絵といってもいいのでしょう。

ところで、この箇所を倭人伝に振り返ってみると、奴国及び不
弥国についての位置と方向は次のように書かれています。

“・・・東南至奴国百里。・・・”と“・・・東行至不弥国百里。・・・”
と、順次並べただけの形で書かれています。

ところが、この双方の文章をよく見ると、前者には動詞が一つで、
後者には動詞が二つ・・・、と違った表し方となっているのに気付
きます。

この違い注意を払わなくてはいけせん。重要なポイントを握って
いるのですから。

魏志全体には、四至の考え方、すなわち“ある重要な拠点から、
その四方には注視すべき国が東西南北方向の位置(八区分方
向指示法も)にありますよ”・・の考えに基づいた表し方で、動詞
(到・至)一つの場合は傍線行程を、また、動詞二つ(行・度・渡)
の場合は主線行程を表そうとしているのです。

つまり・・・、先行動詞(行・度・渡)を伴う二つの動詞をもつ構文
は主線行程を、「至・到」の動詞一つの場合は傍線行程として、
それぞれの用法によって使い分けて読まなければ倭人伝にお
ける行程記事を正確に理解することができない・・・、ということ
です。

この用法にしたがっての文章を見ると・・・、
“・・・東南奴国に至る、百里。”、と。そして、“・・・東行不弥国に
至る、百里。”・・と、連続した並べ方で示されていますが、双方は
伊都国を基点として東と東南に分岐する用法で読まなければな
りません。従って、「不弥国」の位置は上図中ではちょうど「奴国」
の中央部付近へ。さらに「奴国」の位置は、(不弥国と東西の位
置関係で言えば)不弥国の西手前のその南方向に位置すること
になるはずです。

仮にの話ですが・・・・・、上図中で邪馬壹国の位置を考えると、
倭人伝によれば“「不弥国」の南に邪馬壹国あり”と書かれてい
るところだから、「邪馬壹国」の位置は立岩遺跡の近辺に比定す
ることになります。
ところが、立岩遺跡は銘文入りの前漢鏡が見出された遺跡とし
て有名となっていますが、前漢鏡の時代は(BC300〜BC100
年)とされているから、卑弥呼の時代(三世紀中頃)と同一視す
るわけにはゆきません。

ところが逆に、その立岩遺跡から見出された漢式鏡は脱字も多
く意味不明で、文章としても成立しない、ただ文字だけを並べた
だけの文字羅列鏡、ということで、これらの鏡は舶載鏡ではなく、
仿;製鏡と見るべきで、(仿製鏡といえば弥生時代終末期から古
墳時代にかけての鏡ということだから)時代的には都合よく卑弥
呼の時代に当てはまるような気がしますが、これとて、須玖岡本
遺跡のように、青銅器製の「三種の神器」及び「絹」または、「錦」
等など、卑弥呼に由来する遺物がなにも見出されていない遺跡
となっています。
その上、彼らが立岩の漢式鏡を「仿製鏡」の立場を受け入れて、
卑弥呼の時代と同じラインに立つことができるようにみえますが、
「仿製鏡」ということになると、魏の明帝から下賜された舶載鏡
としての論証も成り立ちにくくなります。

よって、立岩遺跡を「邪馬壹国」の卑弥呼の遺跡と考えるのは、
鏡の性質(仿製鏡)から見ても、遺跡の年代設定から考えても、
全てに整合性を見つけることができません。
このように、どこを取り出しても解決の付かない「立岩遺跡」近
辺に「不弥国」を持って行くのは堂々巡りの話となり、上図の表
し方は矛盾だらけを曝け出しているように見えます。

いろいろ上図について批判してきましたが、彼らの考えは定まっ
てはいないようで、“つい、そこへ手が行った”方式の倭人伝行程
の辿り方で、なんともインチキ臭い図絵に見えて仕方がないので
すが、皆様の目には如何様に映るでしょうか。

ところで・・・、
私の考えに戻って、「奴国」の実際の位置をグーグルアースで追
って見ると・・・、
「伊都国」の東限を一大國〔=一大卒・壱岐(生き)の松原〕として
いるので・・・、その領域近辺から東南を見ると、まず最初に見え
るのは吉武高木遺跡を中心とした吉武遺跡群です。
この吉武高木遺跡の周りには吉武樋渡遺跡、吉武大石遺跡、そ
して、さらに、これらの遺跡の西側には幅30〜40m、長さ500m
の狭長な甕棺ロ−ドと呼ばれる長く連なった甕棺墓群(甕棺墓960
基・土坑墓、木棺墓、石棺墓あわせて50基程度
)が飯盛山神社に向かって
拝謁しているかのように並んでいます。この領域をわたしは「奴
国」と比定します。
この室見川の中流域にある吉武遺跡群は、西の山裾にある飯
盛山神社(祭神は「本社として伊弉冉尊、合祀は寶滿大神(玉依
比売)、八幡大神(品陀和貴命)」等があり、その中宮には「五十
猛尊」が祀られています)を擁する飯盛山と、その真向かいに迫
り出す(油山・あぶらやま)との間の広大な領域の中にあります。

そして、嘗ては上宮が存在していたことを偲ばせる飯盛山神社
の下宮と中宮を結ぶ一直線上の山裾から広がる平野部に、まさ
にそこの中心的存在とされている吉武高木遺跡、吉武樋渡遺跡、
吉武大石遺跡などの遺跡があります。これらの位置関係から見
て、これ等の遺跡と飯森山神社との深い縁(エニシ)は太古から
のものであることを物語っているように見えます。

それらの遺跡領域を、私は(飯盛山神社も含めて)「奴国」と見
なします。それが下図です。
画像











この遺跡群の中心的存在の吉武高木遺跡は、博多湾岸に連な
る他の王墓と比較しても、そこから出土した銅鏡による推定年
代の比較上、弥生時代における“最古の王墓”とされている遺
跡です。
この吉武高木遺跡(弥生前期末〔BC100年〕から後期初頭〔AD
100年〕にかけての甕棺墓393基と石棺墓10基からなる)”と、
それに次ぐ弥生戦士の墓と呼ばれる吉武大石遺跡(甕棺墓20
2基、木棺墓8基、土壙墓12基、祭祀土坑5基からなる)、そし
て弥生墳丘墓(帆立貝式前方後円墳)と呼ばれる吉武樋渡遺跡
(甕棺墓30基、木棺墓1、石棺墓1基)等とともに、これらの遺跡
の西側には幅30〜40m、長さ500mの狭長な甕棺ロ−ドと呼
ばれる長く連なった甕棺墓群(甕棺墓960基・土坑墓、木棺墓、
石棺墓あわせて50基程度)が飯盛山神社に向かって拝謁して
いるかのように周りを取り囲むかのように並んでいます。

これだけではありません。その上、さらに、これ等の遺跡群を取
り巻く形で東側方面と南方面に群れを為すかのように大小様々
な遺跡が並んでいます。これ等遺跡全体を吉武遺跡群の集合
領域と見なし、これら全てを私は「奴国」と比定したいのです。

この遺跡の集合領域を「奴国」と見なす理由はつぎの四点から
くるものです。
それは・・・、
@、飯森山と飯森山神社の存在。

   吉武遺跡群の中心を為す吉武高木遺跡の西側の真向かい
   に、例の国産み神話で有名なイザナミ命(イザナギ命を祀る
   神社はこの地より東の若杉山山頂、太祖神社上宮にありま  
   す)が祀られている神社、飯盛山神社があることによります。
  
   このようにイザナミ命を祀る飯盛山神社は太古の歴史を感じ
   させます。

A、高祖山と高祖山神社、それに、日向(ひなた)峠と日向(ひな
   た)川の存在。
  
   これらの考えを傍証するかのように、飯盛山の西奥には、こ
   れまた天孫降臨で有名な高祖山が聳えています。
  
  〔天孫降臨の地に関しては、通説では宮崎県の日向(ひゅうが)
   とされていますが、古事記では“竺紫の日向の高千穂”とな
   っているゆえ当然、「日向」は「ヒナタ」と読むところで、天孫
   降臨の地は宮崎県「日向・ひゅうが」ではなく、筑紫における
   「日向・ひなた」峠の近くの高祖山とみるべきです。 〕
  
  (尚、高祖神社の主祭神は男神で「彦火火出見尊」とされてい
   とされていますが、「彦火火出見尊」は初代ニニギノミコトの
   次の天孫第二代に当たります。主祭神を初代ニニギノミコト
   としても誰も文句を言われないだろうに、それをわざわざ天
   孫の第二代に持ってゆくあたりに何かの「曰く」を感じさせて
   くれて仕方ないのです、が)。

B、金印の“漢委奴国王”の中の「委奴」と「奴国」の関係。
  
  金印が下賜された時代の国王は「奴国」の王だったのでは?
  
   金印が下賜された国王は“漢委奴国王”の中の「委奴」の国
   王と称せさせらていたが、“卑弥呼の時代では「倭国全体」の
   名を表す「委」の冠を脱ぎ捨てさせられ”「奴」の国すなわち、
   「奴国」と名のらせられたのではないか。

   唐津へ降り立った(天降る)倭人が、唐津(菜畑遺跡)から博
   多湾岸の春日(板付遺跡)までおよそ200年くらいの間に勢
   力を広げ、その中で有力な首長が、「高祖山」を東に仰ぐ「三
   雲南小路王墓」近辺の領域に国家の黎明期を迎えていたの
   かも知れません。
   その黎明期の国王が高祖山山塊の北側の裾野を東へ進出
   して、金印が下賜された時代(AD57年)に出会わせたのが
   ここ「吉武高木遺跡」の地に居していた「王」だったのではな
   いか。

C、糸島に集中する支石墓と「奴国」の関連。
  
   弥生時代の始まりは稲作農法をもった民族が北九州へ進
   出、その彼等の首長が埋葬されたのが支石墓という墓で
   す。(この「支石墓」という埋葬形態はBC500年頃から朝鮮
   半島から伝来したもので、縄文晩期〜弥生初期の埋葬様
   式と云われています。)

参考までですが、九州における支石墓の分布図と糸島の支石
墓の分布図を下に示しておきます。
(1)、九州の支石墓の分布図です。
画像



















1975年初版 森 貞次郎氏著「北部九州の古代文化」より。

(2)、下は、糸島の支石墓の分布図です。
画像
















(@志登支石墓群 A新町支石墓群 B井田用会支石墓 C三雲
 石ヶ崎支石墓 D石崎矢風支石墓 E長野宮ノ前支石墓)
<尚、糸島の支石墓分布図は伊都国歴史博物館の常設展示
 図録からの引用です>
   上の(1)、(2)図をご覧になればお分かりのように、唐津近
   辺から糸島半島の付け根まで支石墓が単独ではなく、群れ
   を成して営まれていて、一つのグループごとに、部族、眷属、
   あるいは氏族の長(おさ)等が寄り添うように葬られているの
   が分かります。

   これらの「支石墓」の代表の王の末裔が高祖山の東側に勢
   力を広げ、そこで君臨していた倭国の「王」が漢の朝廷から
   AD57年に「委奴国王」と名付けられていた。そしてさらに、
   時代を経て邪馬壹国の女王卑弥呼の時代には、そのときの
   国の名前は「奴国」へ、との変遷があったのだ・・・と。

・・・、ここで一応、“遂に倭人伝の道程が解けた”についてのピリ
オドを打つことにしますが・・・、

この「奴国」の位置の決定は、倭人伝に盛られた行程記事をそ
のとおりに追っていって得られたものだから、当然、前ページの
論証も“その通り”と思っていただけるかな・・・と。

また、30ヶ国問題等など、まだいろいろな点についての論証も
残っていますが、これについては次の機会に譲ることにさせて
いただきます。

但し、これまでの論証は、C14年代測定法が取り入れられてよ
うやく始まることで、今からでも早くにこの年代測定法が日本の
考古学界に取り入れられることを祈念してやまないハナサンピ
ンです・・・が。

次ページは、まさにそのC14年代測定法の紹介にはいります。

次ページもよろしく・・・、では。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
遂に倭人伝の道程が解けた!。―(2) ハナサンピン/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる